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モハメド・アリ

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モハメド・アリMuhammad Ali英語発音: [muˈhɑməd ɑːˈliː]、1942年1月17日 - 2016年6月3日)は、アメリカ合衆国の元プロボクサー、アクティビスト。ケンタッキー州ルイビル出身。元WBA・WBC世界ヘビー級統一王者。ローマオリンピックライトヘビー級金メダリスト。出生名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア(Cassius Marcellus Clay Jr.)。

概要[編集]

イスラム教改宗前の本名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア(Cassius Marcellus Clay Jr. 英語発音: [ˈkæsɪəs mɑrˈsɛləs kleɪ])。1964年にネーション・オブ・イスラムへの加入を機に、リングネームをカシアス・クレイからカシアス・X、次いでモハメド・アリに改めた(モハメッド・アリムハマド・アリという日本語表記もある)。

1960年、18歳の時にローマオリンピックライトヘビー級で金メダルを獲得。その後プロに転向し、1964年には当時「史上最強のハードパンチャー」と称されたソニー・リストンを相手に大番狂わせを演じ、22歳でWBA・WBC世界ヘビー級統一王座を獲得した。ジョージ・フォアマンとザイールで対戦し、8Rでの一発大逆転を演じたタイトルマッチ(キンシャサの奇跡)や、ジョー・フレージャーとの3度にわたる死闘など、ボクシング史上に残る数々の名勝負を行っている。最終的には、ヘビー級史上初となる通算3度の王座獲得成功と19度の王座防衛に輝いた。「歴史上最も偉大なアスリート」のランキングにおいてトップにランクされることが多く「20世紀で最も偉大なスポーツ選手」とも称される。

黒人解放運動指導者マルコム・Xと出会いその思想に共鳴し、イスラム教に改宗。1960年に勃発し、後にアメリカが本格参戦したベトナム戦争への徴兵を拒否したことにより米国政府と長期にわたって争ったが、最終的には無罪を勝ち取ったことでも知られる(ベトナム反戦活動を参照)。アリの反戦活動は当時の米国政府や保守派との深刻な対立をもたらし、アリは無敗のままWBA・WBC世界ヘビー級統一王座とボクシング・ライセンスを剥奪され、3年7か月間のブランクを作ったが、復帰後、実力で王座奪還を果たした。また、反戦活動と同時に露骨な黒人差別を温存するアメリカ社会に批判的な言動を繰り返した。その後、反戦活動や公民権運動などへの貢献が称えられドイツの平和賞「オットー・ハーン平和メダル」を受賞するなど、アリは「平和主義を象徴する人物の1人」となった。

ボクサーの他に、アクティビスト、セックスシンボル、そしてポップカルチャーのアイコンとして、アリは書籍、映画、音楽、ゲーム、テレビ番組などを含む数多くのジャンルで取り上げられてきた。また、アリは「世界で最も有名な人物」と呼ばれることも多く、1974年から1980年にかけて、アリの1試合の視聴者数は推定10億から20億人を記録し、1996年のアトランタオリンピックでアリが聖火台に点火したシーンは世界中で推定35億人の視聴者数を記録した(テレビ視聴件数を参照)。

引退から3年が経った42歳のとき、現役時代に受けた頭部へのダメージが原因とされるパーキンソン病と診断され闘病生活を送っており、2016年6月3日に74歳で死去した。死因は敗血症ショック。

弟のラーマン・アリ(英語版)、娘のレイラ・アリも元プロボクサーであり、レイラはWBC世界女子スーパーミドル級の初代王者となり、ジョー・フレージャーの娘であるジャッキー・フレージャー・ライドと2001年に対戦している。総合格闘家のケビン・ケーシー(英語版)は義理の息子。また、孫にプロボクサーのニコ・アリ・ウォルシュ、総合格闘家のビアッジョ・アリ・ウォルシュ、父方の祖先にアーチャー・アレクサンダー(英語版)(1815-1880)がいる。

人物[編集]

ファイトスタイル[編集]

大男の力任せな殴り合いだったパワー偏重のヘビー級ボクシングにおいて、アリはリング上を縦横無尽に絶え間なく旋回する「ダンシング」と形容される華麗なフットワークと、両手を低く構え予想外の角度から放たれる鋭い左ジャブを活用する型破りなアウトボクシングを持ち込んだ。また、アリは決してハードパンチャーではなかったが、相手のジャブにカウンターの右ストレート合わせる離れ業や、ブライアン・ロンドンとの試合で見せた2.8秒の間に12発のパンチを放つ驚異的なスピード、並外れた反射神経と動体視力を駆使し相手のパンチをノーガードで交わすディフェンス技術を持っていた。マイク・タイソンが出現した現代においてもなお、ヘビー級史上最速と評価される(アリを尊敬しているタイソン自身がアリとの比較で「アリは私には速すぎる」と語っている)。タイソンの共同マネージャーだったジミー・ジェイコブスは、シンクロナイザーを用いて全盛期のアリと、パウンド・フォー・パウンド史上最高のボクサーと称されたシュガー・レイ・ロビンソンのパンチ速度を測定したところ、アリの方が50ポンド(22.6kg)体重が重かったのにもかかわらず、アリのパンチはロビンソンのパンチよりも25%速く、アリのパンチは約1000ポンド(453.5kg)の威力を生み出していたという。全盛期のアリと対戦したジョージ・シュバロは「彼はとにかく速かった。彼がパンチの射程距離に入った時には、もう既に彼が先にパンチを打ち始めていた。だから、もし君がパンチを当てるために彼が射程距離に入るのを待っていたら、君は殴られ続けることになるだろう」と語っている。映画『ALI アリ』でアリ役を演じたウィル・スミスのトレーナーを務めたダレル・フォスターは「アリの特徴的なパンチは左ジャブと右オーバーハンドだった。また、アリは少なくとも6つの種類のジャブを使い分けていた」と語っている。蝶のように舞い、蜂のように刺すFloat like a Butterfly, Sting like a Bee)という著名なフレーズは、アリのトレーナーのドリュー・バンディーニ・ブラウン(英語版)がアリのフットワークとパンチを形容したもので、試合前によく肩を組んで「蝶のように舞い、蜂のように刺す!」と一緒に叫ぶパフォーマンスを見せていた。キャリア後期になりスピードとフットワークが衰えると、アリは試合中に自らロープにもたれかかり(ロープの弾力を利用し相手のパンチの衝撃を和らげるため)両腕でガードを固め、相手のパンチを腕でブロックしながら、時にリング外にのけぞるようにスウェーしてパンチを回避し、相手が攻め疲れたところを反撃するクレバーな戦法を取るようになり、これは後に『ロープ・ア・ドープ(英語版)』として定着した。ボクシング審判員のアーサー・メルカンテ(英語版)は、キャリア晩年のアリについて「アリは全ての技術を知っていた。特にクリンチの技術は私が見た中で最高だった。彼はクリンチを体力回復の為に用いただけでなく、身体の大きさを活かして相手に寄りかかり、押したり引っ張ったりして相手に休む暇を与えず、着実に体力を奪っていた」「彼はとても賢かった。ほとんどのボクサーはただリング上で無我夢中に戦っているだけだが、アリはリング上で起こっていることの一瞬一瞬を全て感じ取っていた。まるでリングサイドに座って試合を分析しながら戦っているかのようだった」と評している。

生い立ち[編集]

1942年1月17日、アメリカ合衆国ケンタッキー州ルイビルのルイビル総合病院で、父カシアス・シニアと母オデッサの間に、カシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア(奴隷制廃止のために活動した19世紀の政治家カシアス・マーセラス・クレイに由来)として生まれた。アリは南北戦争時代の黒人奴隷の子孫でアフリカ系アメリカ人だが、イングランドとアイルランドの血も引いており、母方の曽祖父であるエイブ・グレイディはアイルランドのクレア州エニスからの移民であった。アリは人種差別の中で育ち、幼少期に黒人であることを理由にレストランで水を飲むことを拒否されるなどの仕打ちを受けた。また、幼少期にアリは1955年に起こった黒人少年エメット・ティル殺害事件に衝撃を受け、後年にも「エメット・ティルの話ほど私を揺さぶるものはなかった。彼は私とほぼ同い年だったんだ」と語っていたという。母オデッサはキリスト教への強い信仰を通して、アリと弟ラーマンの精神的な成長に大きな影響を与えた。アリは後に、母オデッサについて「私の母はバプテスト派で、私が成長したとき、母は神について知っていることを全て教えてくれた。毎週日曜日になると、彼女は私に服を着せて、私と弟を教会に連れて行き、彼女が正しいと思う道を私たちに教えてくれた。人を愛すること、誰にでも親切に接すること、偏見や憎しみを持つことは間違っていると教えてくれた。彼女は優しく、太っていて、そして、料理をすること、食べること、服を作ること、家族と一緒にいることが大好きな、素晴らしい女性だった。彼女は酒も飲まず、タバコも吸わず、他人の仕事にも口出しをせず、誰にも迷惑をかけなかった。人生の中で、誰よりも私に良くしてくれた人だった」と振り返っている。アリは小学生の頃、父親から誕生日にプレゼントにもらった自転車を宝物にしており、それに乗ってよく近所にポップコーンとアイスクリームをもらいに行っていた。ところが12歳の時、誰かに自転車を盗まれ、警察に行った際に対応した警官のジョー・E・マーティン(英語版)がボクシングジムのトレーナーもしており、「犯人を殴りたい」と泣きながら言うアリにボクシングを勧めた。当初、アリはマーティンの申し出を断ったが、地元テレビのボクシング番組「トゥモローズ・チャンピオンズ」でアマチュアボクサーの試合を観てボクシングに興味が湧き、後日マーティンのボクシングジムに入った。これが、モハメド・アリがボクシングを始めたきっかけとなった。

評価[編集]

アリは世界ヘビー級王座を3度獲得した史上初のボクサーである。また、アリはリングマガジンのファイター・オブ・ザ・イヤーに6度選出された唯一のボクサーであり、アメリカの大手スポーツ月刊誌『スポーツ・イラストレイテッド』のスポーツパーソン・オブ・ザ・イヤーに選出された僅か3人のボクサーのうちの1人(残り2人はシュガー・レイ・レナードとインゲマル・ヨハンソン)である。1999年、スポーツ・イラストレイテッドはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開催した「20世紀スポーツ賞」でアリを「スポーツマン・オブ・ザ・センチュリー」に選出した。アリは国際ボクシング名誉の殿堂博物館の国際ボクシング殿堂入り(初年度)を果たし、7人の殿堂入りボクサーから勝利を収めている。AP通信は20世紀史上最高のボクサーとしてアリをシュガー・レイ・ロビンソンに次ぐ2位に選出し、同時に史上最高のヘビー級ボクサーとして1位に選出した。

エピソード[編集]

フレージャーとの関係[編集]

2002年に出版されたインタビューの中で、ジョー・フレージャーはアリと初めて出会ったのが1968年頃だったと回想している。当時、アリはボクシング・ライセンスを取り戻すために法廷闘争を続けており、フレージャーは世界ヘビー級王者だった。ライフ誌の元スポーツ編集長でフレージャーの取り巻きの一人であったデイブ・ウルフによると、フレージャーはアリを倒せば「史上最強のボクサー」として認知されると考えていたため、アリのライセンス再取得に協力的だったという。フレージャーは、当初アリが行うはずだったリチャード・ニクソン大統領との面会を代役でこなし、当時アリに金も貸していた。アリも当初フレージャーに対して好意を示しており「私とフレージャーは後に友人になるだろう。私はアンクル・トムのような裏切りをせずに歴史に名を刻みたいが、フレージャーも同じ気持ちだろう。彼は馬鹿じゃない」と語っている。しかし、1試合目が近づくにつれ、アリはフレージャーのことを「馬鹿」「アンクル・トム」と罵り、2試合目では「無能」、3試合目では「ゴリラ」呼ばわりした。フレージャーも応戦し、アリの旧名である「カシアス・クレイ」や「偽物」と呼んで挑発した。作家のフェリックス・デニスとドン・アティオは、アリが過去にフレージャーに対して親切な言葉をかけていたことを考えると、フレージャーに対するトラッシュ・トークは全て空虚に聞こえたと指摘している。アリとフレージャーは5年間で3度対戦し、特に1度目と3度目の対戦はボクシング史上に残る名勝負とされている。3度目の試合後、アリは控室にフレージャーの息子マーヴィスを呼び、父親に対する今までの発言を謝罪。マーヴィスがアリの謝罪を父親に伝えると、フレージャーはアリが自分の控室に直接謝罪に来るべきだと語ったという。その後2人は度々面会し、テレビ番組で共演した際にはハグを交わし互いに敬意を表した。2001年のニューヨーク・タイムズとのインタビューで、アリは再びフレージャーに対し試合を宣伝するためにトラッシュ・トークを行ったことを謝罪した。フレージャーはこの問題を忘れる時が来たと語り謝罪を受け入れ、1度目の対戦から40年が経った2011年、フレージャーはアリを完全に許し謝罪を受け入れたと述べた。翌年の2012年にフレージャーが死去、アリはフレージャーの葬儀に参列し、パーキンソン病で震える身体で席から立ち上がりフレージャーに対して拍手を送ったという。

タイソンとの関係[編集]

ボクシングにおける「時代を超えた夢の対決」としてファンの間で語り草になっているのがアリとマイク・タイソンである。アリとタイソンが初めて出会ったのは1989年のテレビ番組である。この際「アリとタイソン、全盛期同士ならどちらが勝つ?」という質問に、アリは「もし彼が私を捕らえたら私は眠ってしまうだろう」「彼は真の王者だ」と答え、タイソンは「俺は自惚れする生意気だが、この状況では、全ての頭は彼にお辞儀をし、全ての口は彼を"史上最高"だと告白しなければならない」とアリに敬意を表した。また、タイソンは「アリのようなファイターは他にいない。彼はモデルのように美しい見た目だったが、リング上では獰猛だった。まるで美しい見た目をしたティラノサウルスのようだ。私なんかが彼に勝てるわけがない。絶対に有り得ない」と語り、フロイド・メイウェザー・ジュニアが自分はアリよりも偉大だという旨の発言をした際には、タイソンは「奴は妄想的だ。"偉大"という言葉は自己保身のために使うものではない。これは人々から受け入れられるものだ。奴は一人で子供達を学校へ連れて行くことさえできない。小さな臆病な男だ」と怒りを露わにした。

収益[編集]

1978年までのアリのファイトマネーの総収入は、当時のボクサーとしては破格の6000万ドル(現代のレートで3億6400万ドル)と推定されている。しかし、同年にアリは破産を申請したことを明かし、これはアリの派手なライフスタイルに加え、子供たちへの養育費と前妻2人への慰謝料、両親への仕送り、慈善活動や宗教的活動への支出、多額の税金の徴収、また試合のプロモーター等が興行収入の3分の1を搾取していたことが要因だとされており、当時、アリの1日あたりの生活費は1万ドルを上回っていたという。2006年、アリは自身の名前や肖像等の知的財産権をCKX, Inc.(英語版)に5000万ドル(約59億円)で売却し、同年、アリはアメリカの経済誌『フォーブス』のスポーツ選手長者番付で、引退したスポーツ選手にも関わらず5500万ドルで3位にランクインした。2016年に死去した際の純資産は5000万ドルから8000万ドルの間だと推定されている。

その他[編集]

  • アリはムスリムの義務であるザカート(困窮者を助けるための義務的な喜捨)を積極的に実践、慈善団体や宗教的背景を持つ困窮者に数百万ドルを寄付した。 また、アリは世界中で飢餓に苦しむ2200万人以上の人々に食事を与えるのに貢献したと推定されている。
  • 1978年、アリは訪問したバングラデシュの名誉市民権を取得した。同年、アリは歌手のスティービー・ワンダーや俳優のマーロン・ブランドと共にアメリカインディアン運動の平和行進「ロンゲスト・ウォーク」に参加した。
  • 1981年1月19日、ロサンゼルスを訪れた際に、ビルの9階のベランダから飛び降り自殺を図ろうとしていた黒人男性(ベトナム戦争に従軍した元軍人)を偶然見かけると、アリはすぐさま男性のいる9階まで上がり、隣の非常階段の窓越しから説得を試みた。この際、地上からは警察官、心理学者、大臣等が男性に説得を試みていたが失敗に終わっていた。また、野次馬の中には男性に対して飛び降りるよう促す者もいたという。アリは男性に対して「貴方は私の兄弟だ。嘘はつかない。私は貴方を愛している。私と一緒に帰ろう。そして私の友人と会ってほしい」と語ったとされており、約30分間の説得の末にアリは男性の肩に腕を回し、安全な場所へ連れて行くことに成功した。アリは男性に付き添って退役軍人管理病院に行き、警察は男性が72時間の精神検査を受ける予定だと発表した。その後、アリは男性の入院する病院を毎日訪問し、男性に新しい服を買い与え職探しを手助けした。
  • 1978年、ルイビル市議会はルイビルのダウンタウンにあるウォルナット・ストリートの名称を『モハメド・アリ・ブールバール(英語版)』(モハメド・アリ大通り)へ変更することを6対5の投票数で可決した。
  • アリは生涯を通して数多くの名言を遺している。中でも有名なのが「Impossible is Nothing」(日本語訳で"不可能などあり得ない")であり、これは大手スポーツブランドアディダスの企業スローガンとなっている。
  • スポークン・ワード・アーティストとして、アリは2枚のスタジオ・アルバム『I Am the Greatest!(英語版)』(1963年)と『The Adventure of Ali and His Gang vs. Mr. Tooth Decay(英語版)(アリの仲間対虫歯さんの冒険)』(1976年)をリリースし、両方のアルバムがグラミー賞にノミネートされている。また、『I Am the Greatest!』のB面でベン・E・キングの楽曲『スタンド・バイ・ミー』をカバーし、Bubbling Under Hot 100 Singlesにチャートインした。
  • アリのテーマソングである「炎のファイター」(通称「アリ・ボマイエ(ボンバイエ)」、マイケル・マッサー作曲)は、1976年に対戦したアントニオ猪木に記念として寄贈され「イノキ・ボンバイエ」として歌われている。この歌は、翌年公開の映画『アリ/ザ・グレーテスト』のエンディング・テーマ「I Always Knew I Had It In Me」(作詞: ジェリー・ゴフィン)としてジョージ・ベンソンが全く別アレンジのバラードとなって流れる。ちなみにオープニング・タイトルの「The Greatest Love of All」は後にホイットニー・ヒューストンがカバーして大ヒットを記録した。
  • 1977年、ニューヨークでアート・ギャラリーを経営していたロドニー・ヒルトン・ブラウンから申し出を受け、アリはアマチュア芸術家として活動を始め生涯に数十枚の絵画や描画を制作した。2021年10月、生前にアリが制作した絵画や描画等の芸術品26点がオークションにかけられ、約100万ドル(1億1400万円)で落札された。
  • アリはアメリカの大手スポーツ月刊誌『スポーツ・イラストレイテッド』の表紙に40回起用され、これはプロバスケットボール選手マイケル・ジョーダンの50回に次ぐ歴代2位の記録である。また、アメリカの大手ニュース雑誌『タイム』の表紙にはアスリート史上最多となる5回起用されている。
  • 2008年、スポーツ・イラストレイテッドは「世界を変えるための手段としてスポーツマンシップ、リーダーシップ、慈善活動の理想を体現した元スポーツ選手」を毎年表彰する「スポーツマン・レガシー賞」を創設し、2015年に同賞を「モハメド・アリ・レガシー賞」に改名した。アリは1963年に初めてのスポーツ・イラストレイテッドの表紙を飾り、受賞者を選ぶ際には、アリの未亡人である妻ロニーが相談役となっている。
  • 1984年アメリカ合衆国大統領選挙では、共和党のロナルド・レーガンの再選を支持した。
  • アリはミュージシャンのエルヴィス・プレスリーと親交があり、1973年の初対面以降、1977年まで交友が続いた。アリはミュージシャンの中で特にエルヴィスとサム・クックが好きだったという。エルヴィスはアリに宝石が埋め込まれたガウンを贈り、アリはそれをケン・ノートン戦の入場時に着用したが試合に敗れたため、以降2度と着用することはなかったが、記念品として大切に保管していた。その後、アリはガウンのお返しとしてエルヴィスに金色のサイン入りグローブを贈った。
  • ケン・ノートン戦の敗北後に、ノートンのファンから「蝶は羽を失い、蜂は針を失った」という投書が届き、これを気に入ったアリはジムの壁にこれをテープで貼りつけて毎日眺め、「羽」と「針」を取り戻す決意を新たにしていた。
  • ボクシングの映画『ロッキー』の作中に登場する世界ヘビー級王者アポロ・クリードはアリがモデルとされており、この映画の主人公ロッキー・バルボアを演じたシルヴェスター・スタローンがアカデミー賞の授賞式で演説をしていた最中には、実際にアリがサプライズで登場しスタローンを驚かせた。
  • アリはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに名を連ねている。通常、ウォーク・オブ・フェームはエンターテイメント界で活躍した人物の名前が彫られた星型のプレートが地面に埋め込まれているが、預言者ムハンマド(モハメド)の名を踏んではならないというアリの希望で、アリのプレートは唯一壁に埋め込まれている。
  • 武道家で俳優のブルース・リーは、 1960年代に截拳道を開発する際に、アリのフットワークを研究しエッセンスとして取り入れたと言われている。
  • 2005年11月19日、アリは故郷ルイビルのダウンタウンに6000万ドルをかけて非営利の博物館及び文化センター『モハメド・アリ・センター(英語版)』を設立し、ルイビルで人気の観光名所の一つとなっている。
  • 2023年10月23日発売予定の総合格闘技ゲーム『EA SPORTS UFC 5』(PlayStation 5・Xbox Series X/S対応)の予約特典の限定キャラクターとして、ボクサーながらアリが登場することが発表された。

戦績[編集]

  • アマチュアボクシング:105戦 100勝 5敗
  • プロボクシング:61戦 56勝 (37KO) 5敗

獲得タイトル[編集]

アマチュアボクシング[編集]

  • ケンタッキー州ゴールデングローブ 優勝(6度)
  • シカゴ・ゴールデングローブ 優勝(2度)
  • 全米ゴールデングローブ ライトヘビー級・ヘビー級 優勝(2度)
  • AAU全米選手権 ライトヘビー級 優勝(2度)
  • ローマオリンピック ライトヘビー級 金メダル

プロボクシング[編集]

  • WBA世界ヘビー級王座(4度)
  • WBC世界ヘビー級王座(2度)
  • NABF北米ヘビー級王座(3度)
  • NYSAC世界ヘビー級王座(1度)
  • リングマガジン世界ヘビー級王座(3度)

受賞歴[編集]

  • オリンピック金メダル再授与(1996年)
  • オットー・ハーン平和メダル(2005年)
  • 大統領自由勲章(2005年)
  • プリンストン大学名誉博士号(2007年)

関連映画[編集]

劇映画
  • アリ/ザ・グレーテスト(トム・グライス監督)
  • ALI アリ(マイケル・マン監督、ウィル・スミス主演)
  • あの夜、マイアミで(レジーナ・キング監督)
ドキュメンタリー映画
  • モハメド・アリ かけがえのない日々(レオン・ギャスト監督)
  • チャンピオンへの道(ジム・ジェーコブス監督)
  • モハメド・アリ 世界が見た王者(フィル・グラブスキー監督)
  • フェイシング・アリ(英語版)(ピート・マコーマック(英語版)監督)

書籍[編集]

  • 『モハメド・アリ自伝 わが魂の戦歴』鈴木主税訳 早川書房
  • ホセ・トレス 『カシアス・クレイ』 和田俊訳 朝日新聞出版 1972年
  • 田原八郎 『モハメド・アリ―合衆国と闘った輝ける魂』 燃焼社、2003年8月
  • ハワード・L. ビンガム 『モハメド・アリ 聖者』 岩本正恵訳、リトルモア、1997年11月
  • マイク・マークシー 『モハメド・アリとその時代―グローバル・ヒーローの肖像』 藤永康政訳、未來社、2001年10月
  • デイビッド・レムニック 『モハメド・アリ―その闘いのすべて』 佐々木純子訳、阪急コミュニケーションズ、2001年9月
  • デイヴィス・ミラー 『モハメド・アリの道』 田栗美奈子訳、青山出版社、1997年9月
  • 田中茂朗 『モハメド・アリ 〜リングを降りた黒い戦士』 メディアファクトリー、1992年6月
  • トマス・ハウザー 『シリーズ・ザ・スポーツノンフィクション14 モハメド・アリ -その生と時代』小林勇次訳、東京書籍、1993年7月
    • 新版『モハメド・アリ その生と時代』 岩波現代文庫(上下)、2005年5月
  • ジョナサン・アイグ『評伝モハメド・アリ アメリカで最も憎まれたチャンピオン』 押野素子訳、岩波書店、2022年9月
  • ハナ・アリ 『私の父モハメド・アリ』 北沢あかね訳、愛育社、2001年9月
  • 『月刊スーパーマン増刊 スーパーマン対モハメド・アリ』月刊スーパーマン1978年9月号増刊号、マーベリック出版
    雑誌は既に廃刊・絶版済み。スーパーマンのストーリーにアリを絡ませたコミック作品である。アリを取材にクラーク・ケントたちがやってきた際、地球に強大な宇宙艦隊が飛来する。その宇宙艦隊の要求により、アリが地球チャンピオンとして、宇宙の格闘技王者ハンニャと地球の運命をかけて対戦することになる。地球人を奴隷にするという宇宙人の言葉に怒ったアリはハンニャにKO勝ち、宇宙艦隊もスーパーマンの前に全滅し、アリとスーパーマンの共同戦線により地球の平和は守られるという奇想天外なストーリー。 タイトルのとおり、アリとスーパーマンもリングで対決。クリプトナイトの影響下で戦ったスーパーマンは意識を失いながらも立ち続け、アリは止めの一撃を打たない。


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