マレーシア
マレーシア(マレー語: Malaysia、英: Malaysia)は、東南アジアに位置し、マレー半島南部およびボルネオ島北部からなる連邦立憲君主制国家。
首都はクアラルンプール。
イギリス連邦加盟国のひとつ。タイ、インドネシア、ブルネイと陸上の国境線で接しており、シンガポール、フィリピンと海を隔てて近接する。ASEANの一員。
1963年、マレー半島のマラヤ連邦とシンガポールに加え、北ボルネオ、サラワクを含む国家となる。インドネシアが反発し、国交断絶となる。また国内の民族対立から、1965年にはシンガポールが分離した。その後もマレー人と華人の民族対立が続いたが、1970年代からマレー人優遇策(ブミプトラ)に踏みきり、1980年代以降はマハティール・ビン・モハマド首相の主導するルック・イースト政策で工業化を遂げることに成功した。
人口:34,706,198人(43位)
国名[編集]
正式名称は、Malaysia。(マレー語: [malajsiə])。
公式の英語表記は Malaysia([məˈlεɪʒə])。
国外での表記[編集]
日本語の表記はマレーシアあるいはマレイシアである。ほかにマレーシャ、マレイシヤなどの表記もある。また、連邦制国家であることに鑑みマレーシア連邦とされることもある。漢字による当て字では馬来西亜と表記し、馬と略す。中国語表記は马来西亚(簡体字) / 馬來西亞(繁体字)。略称は大马(簡体字) / 大馬(繁体字)。
名称の由来[編集]
マレーシアとは「『ムラユ (Melayu)』の国」の意味だが、この「ムラユ」という言葉自体は、サンスクリット語で「山脈のある土地」を意味する「マラヤドヴィパ (Malayadvipa)」を語源としている。古代インドの時代には、交易商たちがマレー半島を指すときに使う言葉であった。その後、7世紀の唐の僧侶の義浄による記録に現れるスマトラ島に存在したシュリーヴィジャヤ王国(3世紀 - 14世紀)の他称『ムラユ王国』として継承され、近代に入ってからフランス人の探検家ジュール・デュモン・デュルヴィルによってマレーシアという言葉が生み出される。もっとも、当時は現在のマレーシアのみならず、東インド諸島全体を指し示していた。そのため、現在のフィリピンが独立する際、国名をマレーシアとする案もあったとされる が、フィリピンよりも先にマラヤ連邦(現在のマレーシア)が先に自らをマレーシアと呼称するようになり、現在に至る。
歴史[編集]
- 13世紀 - アラブ商人やインド商人と共にイスラム教が伝来し、仏教とヒンドゥー教の時代が終わった。
- 1400年 - マラッカ王国成立。
- 1511年 - ポルトガル、マラッカを占領(ポルトガル領マラッカ、1511年 - 1641年)。
- 1542年 - マラッカからポルトガルの鉄砲が日本に伝来した(鉄砲伝来)。
- 1549年 - イエズス会のフランシスコ・ザビエルがマラッカを出発し、日本到着。
- 1641年 - オランダ、マラッカを占領(オランダ領マラッカ(英語版)、1641年 - 1825年)。
- 1777年 - 隣国シャム(現在のタイ)のソンクラー国主に福建省漳州府海澄県出身の華僑・呉譲が就任。以後、ソンクラー国を拠点としてシャム軍がパタニ王国、ケダ・スルタン国(英語版)への侵略の動きを見せ始める。
- 1786年 - シャムの攻撃を恐れたケダ・スルタン国は、非常時におけるイギリスによる兵力援助の約束と引き換えに、イギリス東インド会社にペナン島を賃貸した。イギリス東インド会社は、中国やインドからの移民増加政策を行った。
- 1791年5月1日 - シャムが隣国のパタニ王国(現在のタイ深南部三県)まで攻めてきたため、イギリスに派兵を要求したが断られた。ここにケダ・スルタン国はフランシス・ライト(英語版)に5年間騙されていたことが発覚した。クダ・スルタン国は1万人からなる大軍によるペナン島回復戦を計画したが、事前にフランシス・ライトに察知され、ペナンを取り返すどころか対岸の拠点セベラン・ペライ(英語版)を奪われてしまい、ペナンを正式にイギリスに明け渡した(ペナンの歴史)。
- 1795年 - イギリス、マラッカを獲得。
- 1805年 - トーマス・ラッフルズがペナンに派遣され、ペナンで積んだ経験が後のシンガポール建設の参考となった。
- 1819年 - トーマス・ラッフルズがシンガポールの地政学上の重要性に着目、ジョホール王国の内紛に乗じてシンガポールを獲得した。
- 1821年 - ケダ・スルタン国はシャムに征服され、統治された。
- 1824年 - イギリス・オランダ両国にて、マレー半島(マラッカ海峡)を中心とする地区の勢力範囲を定めた英蘭協約を締結(イギリスはスマトラ島西海岸のベンクーレン(ブンクル)とオランダのマラッカを交換し、ペナン・シンガポール・マラッカのマレー半島に英領植民地を得る)。
- 1826年 - イギリスとシャムがバーニー条約(英語版)を締結し、イギリス領マラッカ海峡植民地成立。
- 1836年 - フランシス・ライトの息子でペナン出身のウィリアム・ライトが南オーストラリアのアデレード建設を開始。
- 1840年 - ジェームズ・ブレマー(英語版)率いる英国極東艦隊が海峡植民地シンガポールから阿片戦争へ出撃。ジェームズ・ブルックがサラワクの反乱の鎮圧に協力。
- 1841年 - サラワク王国がブルネイ・スルタン国から独立。
- 1842年 - ジェームズ・ブルックがサラワク王国の国主となる。
- 1855年 - イギリスとシャムが通商貿易に関するボーリング条約(英語版)(不平等条約)を締結。
- 1874年 - イギリス領マラヤ成立。錫鉱床の開発が進む。
- 1882年 - アヘン戦争で有名なランスロット・デント(英語版)のデント商会(英語版)のデント兄弟がイギリス北ボルネオ会社による北ボルネオ(スールー王国とブルネイ王国)の統治を開始。
- 1888年7月 - イギリス北ボルネオ会社により統治されるイギリス保護国北ボルネオが成立。
- 1909年 - 英泰条約(英語版)によってクダ・スルタン国はイギリスに移譲され、イギリス領マラヤになる(Unfederated Malay States)。
- 1941年 - 日本軍がコタバル近郊に上陸(マレー作戦)。太平洋戦争の開戦。
- 1942年 - 日本軍がマラヤ全域を占領(日本占領時期のマラヤ)日本人墓地が数か所ある。
- 1946年 - マラヤ連合と改称。サラワク王国がイギリス領サラワクになる。
- 1947年 - マラヤ連邦、イギリス領植民地の集合体として結成。
- 1948年 - 戦後、イギリスに返還されていたケダ州がマラヤ連邦に加入。マラヤ危機(1948年 – 1960年)。
- 1957年 - マラヤ連邦(初代国王トゥアンク・アブドゥル・ラーマン、初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマン)独立。
- 1962年 - 1966年 - インドネシアとマレーシアの対立(英語版)。
- 1963年 - シンガポール、イギリス保護国北ボルネオ、イギリス領サラワクがマラヤ連邦と統合し、マレーシアが成立。
- 1965年 - シンガポールがマレーシアから独立。
- 1968年 - 1989年 - 共産主義者の反乱(英語版)。
- 1969年5月10日 - 1969年総選挙実施。
- 1969年5月13日 - マレーシア史上最悪の民族衝突であるマレー人と中国人の間の衝突(5月13日事件)が起きる。
- 1970年 - 7月緊急条例発布。9月、ラーマン首相辞任。第2代首相にアブドゥル・ラザク就任。
- 1974年 - クアラルンプールを連邦の首都に定める。
- 1981年 - マハティール首相就任( - 2003年)。
- 1984年 - サバ州沖合のラブアン島が連邦直轄領になる。
- 1999年 - 首相官邸がクアラルンプール郊外の新行政都市プトラジャヤに移転。首都機能が2010年までに移転される。
- 2003年 - アブドゥラ・ビン・アフマッド・バダウィが首相に就任。
- 2007年 - 国語表記を、マレー語からマレーシア語 (bahasa Malaysia) に定めた。
- 2008年2月13日 - アブドラ首相は、連邦議会下院を解散すると発表した。憲法の規定により解散後60日以内に総選挙が行われる。同時にサラワク州を除く12州議会に解散するよう要請した。
- 2008年 - 3月の総選挙で国民戦線は3分の2議席を確保できなかった。
- 2009年 - 前年の総選挙で与党連合が歴史的敗北を喫し、アブドラ首相が責任をとって二期目の任期4年を残し辞任。4月3日、マレーシア与党連合・国民戦線の中核政党の統一マレー国民組織 (UMNO) の新総裁ナジブ・ラザクが第6代首相に就任した。
- 2013年2月11日 - ラハダトゥ対立 (2013年)。
- 2015年7月2日 - 国策投資会社1MDBからナジブ首相の個人口座へおよそ7億ドルが振り込まれた公文書記録をウォール・ストリート・ジャーナルが報じた。下旬、会社幹部が逮捕者を出す一方、内務省は経済紙に発禁命令を出した。
- 2015年10月11日 - シンガポール金融管理局が、スイスのファルコン・プライベート・バンクとUBSのシンガポール支店、地場金融大手DBS銀行に対し、資金洗浄規制に違反したとして処分を下したと発表。UBSとDBSは、1MDBの資金流用に関与した疑いで調査されていた。UBSは130万Sドル、DBSは100万Sドルの罰金を科された。
- 2018年 - 2018年マレーシア総選挙実施。
- 2020年 - マレーシアの高等裁判所は政府系ファンド「1MDB」の資金を不正流用した罪などに問われたナジブ・ラザク元首相に有罪の判決を下した。
政治[編集]
政体は立憲君主制である。また、小選挙区制をとるが、都市部と農村部の間の一票の格差は最大9倍に及び、農村部の票が強い状態となっている。