ポケットビスケッツ
ポケットビスケッツ(POCKET BISCUITS)は、日本テレビのバラエティ番組『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』から誕生した日本の音楽ユニット。通称は、ポケビ。所属レコード会社は東芝EMI(2016年11月の20周年記念盤リリース時はユニバーサル ミュージック ジャパン)。
ウッチャンナンチャンの内村光良(TERU)、タレントの千秋(CHIAKI)、キャイ〜ンのウド鈴木(UDO)の3人組から成る。 1995年から2000年まで活動し、同年より活動休止中。 2018年8月25日、同局の24時間テレビにて一夜限りの復活を果たす。
主な発表曲として、100万枚以上の売上を記録した『YELLOW YELLOW HAPPY』、『Red Angel』、『POWER』などがある。『POWER』は同番組で唯一のオリコン週間チャート1位を獲得した。同番組から後発されたブラックビスケッツと共に、番組が生んだ2大ユニット、2大スターなどと呼ばれた。ポケットビスケッツを卒業した千秋はソロで歌手活動をし、ウリナリには2001年4月まで出演を続けた。内村とウドは後に別キャラクターとして、さまぁ~ず大竹らと共にウルトラキャッツを結成した。
結成までの経緯[編集]
1995年10月20日、『ウッチャンナンチャンのウリナリ!』(以下、ウリナリ)の前身番組『ウッチャンウリウリ!ナンチャンナリナリ!!』で始まった「スーパースター誕生! 〜K・Nanami アジアへの野望〜」という企画に活動の端を発する。当初は「ポケットビスケッツ」という存在は企画の予定に入っておらず、高山理衣をアジアへ売り出すことが主なテーマであった。
レコードセールス戦略の一環としてマーケットの拡大を目論む男、天才音楽プロデューサー・南々見一也(南原清隆)は、自分の事務所の社長・白石恵(国生さゆり)、マネージャー・工藤勝馬(勝俣州和)と共にフィリピンでのアイドル戦略を計画していた。南々見は自分が経営する居酒屋ナミちゃんで新人のアイドル・高山理衣と会うことになったが、そこで登場したのがアイドル事務所社長・滋花実(室井滋)とマネージャー・独活野大木(ウド鈴木)であった。またこのとき、テル(内村)と千秋は、居酒屋ナミちゃんの雇われ店長と看板娘という設定の脇役だった。
企画が進み、オクトアーツEMIから「3人組の女性ユニット」という条件でデビューの話がもたらされた。高山を除いた女性メンバー3人(千秋、国生、室井)から2名を選ぶことになったが、南々見の独断により国生と室井が選ばれた。私的にも歌手になることを目標としていた千秋はこの結果に泣き出し、これを庇ったテルが咄嗟に「第2のマモー・ミモー作ってやるダニ」と叫んだことから、もうひとつの音楽ユニットを作ることが決まった。このときのテルの台詞は全くのアドリブであり、番組の企画総合演出を担当した土屋敏男は「あのやりとりがなかったら、ポケビは存在しなかった」と語っている。
12月1日の放送回では女性3人組ユニットの名前を決めることになり、高山が「McKee(マッキー)」、滋が「クチパクルーズ」、白石が「おニャン子くらぶ」、独活野が「ポケットビスケッツ」を提案し、結果「McKee」が採用された。ユニット名が決まった直後、テルと千秋が現れて独活野を引き抜きに来たと言い出すが南々見はあっさりとこの引き抜きを承諾する。こうしてテル、千秋、独活野のグループが結成されるが、その3人に向かって南々見は「お前らの名前はもう決まってるよ。ポケットビスケッツ」と独活野の提案したグループ名を宛てがった。この時点ではポケットビスケッツはまだMcKeeの添え物扱いであった。
なお、後に勝俣州和がポケットビスケッツの由来について、童謡『ふしぎなポケット』の「ポケットの中にはビスケットがひとつ、ポケットを叩くとビスケットはふたつ」になぞらえて「夢・喜び・笑顔がどんどん増えていくグループにしたい」という想いを込めてウド鈴木が考案したと語っている。
デビュー[編集]
McKeeは後藤次利、ポケットビスケッツはパッパラー河合プロデュースによるデビューが決まり、CD発売に先立ちフィリピンでライブが行われた。両者のデビュー曲は共に1996年4月17日の発売と決まり、「オリコン週間チャートでより上位を獲得した曲を番組のエンディングテーマとする」という対決企画へ進んだ。順位発表は5月10日の番組内で行われ、McKeeのデビュー曲「Can't Stop My Heart」が28位、ポケットビスケッツのデビュー曲「Rapturous Blue」はこれを上回る25位となり、ポケットビスケッツが勝利した。以後企画はポケットビスケッツを中心に展開し、McKeeは1作のみで自然消滅した。
その後「Rapturous Blue」はチャート20位まで上昇し、10週連続で100位以内に留まり、累計50万枚以上を売り上げた。作曲を担当したパッパラー河合は、「始め、曲を作った時は、これは売れそうだなとか、ヒットさせてやろうなんていうことは考えてなかったし、のちのちこれほど売れるだろうとは予想してなかったですね」と語っている。また、作詞を担当した千秋は「番組の企画モノ」という雰囲気の中で、どこまで真面目に作ればよいのか悩みながらの作詞であったという。
7月12日には番組内で第2弾シングル「YELLOW YELLOW HAPPY」の製作を発表、CD発売に際しては「普通の番組では考えられない予算」(番組ディレクター・塩谷祥隆)を投じて、前回作られなかったプロモーションビデオが製作され、ジャケットは横浜市のみなとみらい地区にあるヨーヨー広場で撮られた。発売後、テルが「Rapturous Blueの最高20位に届かなかったら解散」という条件を出したが、初登場で8位に入り、活動継続となった。同作の最高位は4位、累計約150万枚を売り上げている。
対決路線の展開[編集]
10月25日の放送では、南々見一也が台湾出身のタレントビビアン・スーを連れて現れ、「祝・ヒットチャートベスト10入り企画」と銘打って15種類の利き酒を行うことを要求。「成功したら初ライブ・失敗したら即解散」という条件で対決が行われた。ポケットビスケッツはこれに勝利し、初めてのライブ開催が決定した。当初は原宿で行われる予定だったが、予想を上回る聴衆が集まったため中止となり、後日新宿アルタ前で改めて開催された。開演前には南々見から再度「利き寿司」対決を持ち掛けられたが勝利を収め、直後に約5000人の聴衆を前に初ライブを行い、「YELLOW YELLOW HAPPY」を披露した。この頃から事あるごとに様々な対決を持ち掛けられ、「できなかったら即解散」という条件が付く対決路線が始まった。
その後、3作目の発売までに至る一連の対戦にもことごとく勝利し、翌1997年1月22日に第3弾シングル『Red Angel』が発売、初登場2位を記録した。発売直前の1月10日には、南々見一也の双子の兄という設定の南々見狂也と、ビビアン(ビビアン・スー)、天山ひろゆき(キャイ〜ン・天野ひろゆき)で結成されたブラックビスケッツが初登場、以後両ユニットの対決が展開されていった。4月には「Red Angel」の売上げが100万枚を突破、同じくミリオンを達成していた「YELLOW YELLOW HAPPY」と共に、東芝EMIからゴールドディスクが贈られた。パッパラー河合はこの2曲のヒットについて、「チアキのボーカルとか作詞の力も大きかった」と述べている。「ポケビ効果」により、『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』自体も視聴率20%を超える人気番組となった。
アルバム発表 - 日本武道館ライブ[編集]
5月2日の放送において、ファーストアルバムを製作することがテルから発表された。発売に先立ちアルバムから1曲をシングルカットすることになり、4曲の候補の中からウドがメインボーカルを務める「GREEN MAN」が選ばれた。この決定には当初ウド自身も反対していたが、7月4日に発表されたオリコンチャートで初登場3位を記録し、番組中で感泣した。パッパラー河合は「ウドのボーカル曲はそのうち注文が来るだろうなとは思ってたけど、まさかシングルカットとは思っていなかった」と語っている。なお、河合が4作目に考えていたのは、アルバムの1曲目に収録された千秋ボーカルの「Pink Princess」であった。
7月14日にファーストアルバム『Colorful』が発売され、初登場3位を記録した。この2カ月後、企画上「ポケットビスケッツの邪魔者」という扱いに過ぎなかったブラックビスケッツの台湾デビューが決定。以後しばしブラックビスケッツが前面に押し出され、ポケットビスケッツは一時的に活動休止状態となった。この最中にブラックビスケッツは9月に台湾において第1弾シングル『闘志』を発表し、2週連続の1位を獲得、『STAMINA』と改題して12月に発売された日本では初登場2位を記録した。12月12日の放送でポケットビスケッツとブラックビスケッツが台湾で合同ライブを行ったのち、年末の日本武道館ライブの権利を賭けて静岡県の浜名湖~日本武道館までの「ガソリンすごろく対決」を行い、ポケットビスケッツが勝利。12月28日(放送は翌1998年1月9日)に初めての本格的ライブとして日本武道館で単独公演を行った(ブラックビスケッツも後から出演)。このステージでは、千秋が歌の最中に感極まり、声を詰まらせる場面もあった。
100万人署名運動 - 初の1位獲得[編集]
1998年3月、ポケットビスケッツのシングル5作目「My Diamond」と、ブラックビスケッツのシングル2作目「Timing」のどちらを同年4月22日に発売するかを賭けて白馬のジャンプ競技場から御殿場のCDプレス工場へのガソリンすごろく対決が行われ、接戦の末ポケットビスケッツが敗北。敗者は新曲のマスターテープを破棄するという条件が付けられていたため、「My Diamond」のテープは破棄された。
だがこの回の放映後にポケビを激励する手紙が寄せられたのを受け、新曲の発売を目指して「100万人署名」を開始。全国各地の小学校を中心に署名運動が展開され、時にポケビが署名活動中の人達を訪ねる一幕もあった。そして署名受付の締切を6月21日と決定し、ラストスパートとしてその当日に有明レインボーステージで無料ライブ「最終日の集い」を開催。署名用紙をチケット代わりにする方式にしたところ、会場のキャパである1万人を遥かに超える観客を集めた。またライブ二日前の放送では、当日現地に来られない全国の視聴者から速達でも署名を募集した結果、会場の臨時集計センターには大量の郵便物が届けられた。結果、署名は目標を大きく上回る178万4892人の署名が集まったと発表された(締切後に届いたものを含めると200万に達した)。1カ月後の7月22日にシングル5作目となる『POWER』が発売され、2週目の売上げにおいて初めての週間チャート1位を獲得した。テルは企画について、「もしいったとしても、ギリギリ100万、いかなかったら90万ぐらいと思っていたから、すごい突き抜けた数字で驚きました。ポケビの一連の企画で初めて視聴者の力を借りて、みんなの力がここまで押し上げてくれたと思った。スゴイと思った」と語っている。
なお、販売店の一部には「100万人に到達しなかったら新曲は出ない」という部分が伝わっておらず、店によっては結果発表前から新曲発売が既成事実のように扱われていたため、「出来レースではないのか」という投書もあった。これについて、東芝EMIのディレクター・長井信也は「みんなこんなに一生懸命やっているのに、そう思われてしまうのは、僕としてもすごくイヤでした」と語っている。長井によれば、結果発表の会場には成功・失敗2種類の台本とくす玉が用意されていたといい、『POWER』の収録も発表当日のジャケット写真撮影をはじめとして、全て結果発表の後に突貫作業で行われた。
同年7月から8月にかけて、100万人署名に対する御礼として全国9か所(沖縄・熊本・福岡・香川・兵庫・愛知・長野・山形・北海道)でのライブツアーを開催。香川では地元であるブラックビスケッツの南々見(南原)の父親が、山形では地元に凱旋したウドの両親が観覧に来ていた。最終地、北海道・旭川では5万人以上を集めるなど各地とも盛況だった。また、ツアー中『POWER』でのウドのギターのパートが増える課題などもあった。
年末にはNHKの第49回NHK紅白歌合戦に「ポケットビスケッツ&ブラックビスケッツ スペシャルバンド」として出場。曲順は後半戦のトップバッターで「POWER & Timing 大晦日MIX」として2組の楽曲をメドレー方式で歌唱した。他のウリナリ出演者も応援に駆け付け、内村が番組の別の企画である「ランキングキャラクターLIVE」のキャラクター・ホワイティに扮したり、最後に「来年は白組で」という幕が現れるなど演出も凝ったものであった。しかし、次の年以降にウリナリの企画グループが紅白に出演することは無かった。
「POWER」は累計110万枚を売り上げ、3作目のミリオンを達成。この年はブラックビスケッツの『タイミング』も売上100万枚を達成し、番組プロデューサーの土屋敏男は「2組とも、10何万ならともかく、100万枚以上売れているということはもう、番組を見ない人までが曲に惹かれて買ってるとしか思えない」と評した。
ソロ活動 - 活動休止まで[編集]
翌1999年2月、ポケットビスケッツの活動として、千秋、テル、ウドがそれぞれソロシングルを発売。その内、テルのシングル「青の住人(すみびと)」にてテル本人がピアノを弾いていないという不正が発覚。「完奏できなければ脱退」という条件でFM横浜の「The Ranking」で生演奏し、これをクリアした。しかし、テル本人は演奏の出来に納得せず自ら進んで仮メンバーとなった。その際、ウドがリーダーを勝手に名乗り「3人のソロシングルを買うと抽選で限定グッズが貰えるキャンペーン」を展開した(ウドのシングルだけ売り上げが伸びなかったため、販売促進を狙ったもの)。その後、テルはZepp Tokyoでのライブで上達した演奏を披露。リーダーに復帰し、3人での活動を再開した。
同年7月、1年ぶりの新曲となる第6弾シングルと、幻の曲「My Diamond」の発売を賭けて、さんざん制約を課せられ苦しめられたウリナリ審査委員会(勝俣州和、堀部圭亮、河村亮)とトライアスロンでの全面対決を決意。見事勝利し22日にポケットビスケッツとしてのシングル6作目『Days/My Diamond』を発売。オリコンチャート最高4位を記録した(売上45万枚)。
同年末には松任谷由実の年越しライブにゲスト参加し、「Yuming+Pocket Biscuits」として共演作「Millennium」を生中継、生演奏で発表した。同作は翌2000年1月21日に同名義でシングルとして発売された。発売同日の放送において、「ポケットビスケッツが番組の一企画であるため、歌手・千秋の活動を狭めている」とするテルが、千秋にソロ活動を進言。3人の相談の末にこれが受け容れられ、これに伴いポケットビスケッツとしての活動は停止することになった。
2000年3月12日、千秋のソロデビュー前の初ライブ後、日本武道館でポケットビスケッツとしてライブを行う。これは直前まで千秋には秘密にされ、テレビでも告知されないシークレットライブのスタイルを取った。このライブでテル・ウド・千秋の今後を祈って手作りの幸せの黄色いハンカチが入場者に配られ、ファンの提案で即興の卒業式が行われた。
活動休止後[編集][編集]
2002年3月。ウリナリの最終回イベント「ウリナリ祭り」で限定的に復活し、メンバー3人が共演(その「ウリナリ祭り」の観客の中で日本武道館のシークレットライブに見に来ていたと同時に黄色いハンカチを持っていた一部の観客もいた)。ポケットビスケッツとしてウリナリ内で活動したのはこれが最後となっている。以後は千秋個人のタレント活動の中でポケットビスケッツの歌が披露されている。千秋はブログでポケビについて言及することもあり、2010年に行われたインタビューでは「復活はウッチャン次第」と語っている。長らく3人とも多忙であるがゆえにそろって仕事することはなかなか叶わなかったが、2016年7月24日放送、フジテレビ『FNS27時間テレビ』内の内村光良(テル)司会のバラエティ「スカッとジャパン」にてようやくウリナリ最終回の有楽町・東京国際フォーラムでのライブ以来、約14年4か月ぶりに3人がテレビ番組での共演を果たす。千秋は自身のインスタグラムで3ショット写真を披露し、往年のファンを感動させた。
2018年8月25日。『24時間テレビ41「愛は地球を救う」』内で『18年ぶり一夜限りの復活』と称して、武道館で「YELLOW YELLOW HAPPY」と「POWER」を披露。事前に正式な出演の告知はされておらずシークレット扱いであった。 千秋は「みんなが揃うの20年ぶりくらいでしたけど、大丈夫でした。相変わらずウドちゃんはポンコツでした」とコメントした。
また『24時間テレビ41「愛は地球を救う」』で電撃復活したことにより、ポケビが2000年に発売した唯一のベスト盤『THANKS』の20周年記念盤として2016年に発売された『THANKS 20th Edition 〜Pocket Biscuits Single Collection+』に注文が殺到。レコード会社の担当者は「24時間テレビ出演直後から約2000枚のCDの注文が来ています」とうれしい悲鳴をあげたという。
2019年4月16日、NHK総合『うたコン「総決算!平成ヒットパレード-第1夜-」』に千秋が出演。約20年4ヶ月振りにNHKホールでポケットビスケッツの楽曲(YELLOW YELLOW HAPPY)を歌唱。千秋は「当時、番組の企画のオマケのオマケのバンドだったので、紅白に出られるようになるとは思っていませんでした」など、紅白歌合戦出場時の裏話を披露した。
同年9月17日放送の『うたコン』にも千秋が出演。AKB48の柏木由紀とコラボで「POWER」を歌唱した。柏木は千秋に会うことが目標で「POWER」は人生を変えた曲だったという。また千秋によるNHKホールでの「POWER」の歌唱は紅白歌合戦出場以来、約20年9ヶ月振りだった。
2020年12月22日、 千秋がYouTubeチャンネル『千秋の歌YouTube』を開設し「POWER」を20年ぶりにフルサイズで歌唱した動画を掲載。収録・撮影にはパッパラー河合も参加した。
2021年9月3日には、YouTubeの登録者10万人突破記念動画を公開。50万人までの節目の登録者数に達する毎に「ポケビ」当時のアルバム曲・シングル曲を歌った動画公開を行うことを明かした。
更に、ポケビ当時の100万人署名活動に引っかけて「100万人登録者運動」企画を開始すると宣言。内村に対し突撃でインタビューを行った撮影動画にて、100万人達成記念での「1日限定」の再結成を打診(撮影動画内には出川哲朗も出演)。「(権利問題の絡みなどで、出来るか否かの)確約はしない」としながらも、再結成に対し了承を得た。また後日にはウドに対しても同様に打診した動画を公開。「是非お願いしますよ」と了承を得た。現在も企画は進行中。
2023年12月16日、大晦日に放送される第74回NHK紅白歌合戦にブラックビスケッツと共に出場することが発表された。紅白歌合戦への出場は25年ぶり。