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ボストン

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ボストン.英語: Boston、は、アメリカ合衆国のマサチューセッツ州北東部サフォーク郡にある世界都市。同州最大の都市かつ州都であり、同郡の郡庁所在地でもある。アメリカで最も歴史の古い街の1つであり、「ニューイングランドの首都」と言われることもある。また、世界有数の大学都市としても有名である。

概要[編集]

1630年9月7日にイングランドのボストン出身の清教徒が街造りを開始し、ボストンはアメリカ最初の公園であるボストンコモン(1634年)、アメリカ最初の公立学校であるボストン・ラテン・スクール(1635年)、アメリカ最初の地下鉄(1897年) など常にアメリカの先導的な役割を果たしてきた。アメリカ独立戦争ではボストン虐殺事件やボストン茶会事件などの歴史的な出来事がボストンで起こり、独立後ボストンは製造業の中心地となり、重要な貿易港に発展した。その長く豊かな歴史に引き付けられて、現在年間1630万人の観光客がこの地を訪れている。

市内及び周辺地域には世界トップクラスの高等教育機関があり、法学・経済学・医学・機械工学の分野は特に有名である。ボストンは金融・ビジネスサービス・バイオテクノロジー・ITテクノロジー関連の企業が多く、面積当たりの雇用の数はニューヨーク・ワシントンD.C.に次いで多い。

ボストンからは数々の有名な投資家が世に出て、アメリカ投資信託の清算制度をめぐりニューヨークの同業と競い、また一般投資家の世論を相手に戦った。結果として20世紀の後半にジェントリフィケーション(高級住宅地化と低所得者の排除)が進み、家賃・地価は1990年代から急激に上昇している。かつてのボストン金融街の名を冠するステート・ストリート、またミューチュアル・ファンド大手のフィデリティ・インベストメンツの本社が立地する。

世界の143主要都市を対象とした2008年の調査ではボストンは生活費の高さで99位にランクされている。他方で、ボストンは「住みやすい都市」の評価で上位にランクされる。世界の215主要都市を対象とした2009年の調査では、ボストンは住みやすさで35位にランクされている。治安も良く、アメリカ国内でも最も安全な都市の一つとされている。

2019年、世界都市ランキングにおいて世界第21位の都市と評価されており、アメリカではニューヨーク・ロサンゼルス・シカゴ・ワシントンD.C.に次ぐ第5位であった。2021年、イギリスのシンクタンクの調査で世界12位の金融センターと位置付けられた。

歴史[編集]

1630年9月7日にイングランドから来た清教徒たちの手によってショーマット半島に築かれた。マサチューセッツ湾植民地の清教徒は、1620年にプリマス植民地(現在のマサチューセッツ州ブリストル郡、プリマス郡、バーンスタブル郡)を建設した入植者(ピルグリム)と混同されることがある。しかし、両者は異なる宗教的実践を有しており、歴史的に見て別々のグループである。ボストンはオリバー・クロムウェルの台頭から当分ロイヤリストであるアンソニー・アービー一族の地盤だった。1652年造幣局が設立されたが、まだ鉱山開発の余裕も技術もない時代であったのでずっと銀貨を悪鋳しており、1684年に本国が植民地の特許状を取り消し閉鎖してしまった。1691年10月7日にプリマス植民地をメイン植民地などと共にマサチューセッツ湾植民地に付属するという公式宣言がなされ、マサチューセッツ湾岸県が設立された。この宣言は翌年5月14日に有効になった。

ボストンは17世紀にアカディアと交易して繁栄した。カナダは麦・魚・毛皮を産した。しかし通貨供給量が足りなかった。原住民の貝殻玉を1670年まで法貨とするほどであったが、サンゴバン等のガラス製レプリカにより価値を喪失した。そこでアカディアの商人は、特産物の倉荷証券と引き換えにボストンから生活物資を調達した。ポート・ロワイヤルの要塞を守る軍靴等がボストンから調達された。ボストン商人もアカディアへ出張した。ポート・ロワイヤルに倉庫をもって、砂糖・蜜・酒・服・食器・その他日用雑貨を売った。結果としてフランスからカナダへ送られた正貨は慢性的に流出した。イギリス・フランス間のアカディアはドイツ・フランス間のアルザスと似て、国益より地縁と商売を取った。

地元教会と懇ろであったボストン商人ヒュー・ホール・ジュニアは、ジョン・レバレットの孫(祖父に同名、7代目ハーバード大学学長)に南海会社重役へ紹介してくれるよう頼んでいた。1720年に南海泡沫事件が起こった。

1721年から翌年にかけて、ボストンに天然痘が大流行した。接種技術は輸入された。フリーメイソンを含む人、そして物・金・郵便・病原体がボストン港で往来した。1721年と1728年には土地を担保に発券する公立銀行が設立された。市場経済に巻き込まれた農民・職人勢力の一部からも支持されて、反体制派の中産階級が通貨不足を打開するという目的で設立を推進した。1739年から1740年代初頭にかけて植民地では、銀行券を土地兌換とするか、または厳格に銀兌換とするかで、前者を支持する中産階級以下と、後者を支持する大商人・大地主との間に、深刻な対立・抗争が起こった。1741年に銀行規制法ができて、これら土地兌換銀行と銀兌換銀行の両方を解散させてしまった。ジョージ王戦争の戦費を調達するため政府証券が増発されて、銀行・通貨をめぐる改革運動は立ち消えとなった。

七年戦争が起こる頃にはイングランド銀行の金融力がイギリス帝国を支配した。1770年代にイギリスは主に課税面で13植民地に対する支配を強めようとした。このことが、ボストン市民をアメリカ独立戦争の開戦へ駆り立てることとなった。ボストン虐殺事件とボストン茶会事件に加え、レキシントン・コンコードの戦い・バンカーヒルの戦い・ボストン包囲戦などの初期のいくつかの戦闘もボストンまたはその近郊で起こった。この時ポール・リビアがイギリス軍の進撃を伝えるために徹夜で馬を飛ばしたのは有名な出来事である。

1783年パリ条約が締結され、ロイヤリストが馴染みのアカディアへ逃亡した。1784年7月5日にジェイムズ・ボーディンやジョン・ハンコックといった名望家がマサチューセッツ銀行を創立した。ジェイムズは初代頭取となった。マサチューセッツ銀行は、当時の法的に従属する関係に関わらず、第一合衆国銀行に対等で競争的な経営を展開したといわれる。この銀行は1928年に旧植民地信託銀行となった。翌年ファースト・ボストン(現クレディ・スイス)に買収されたが、しかしグラス・スティーガル法により再び別れた。旧植民地信託銀行は1968年パットマン報告書によるとボストンの信託資産総額における38.0%を運用した。1996年にボストン銀行となり、2005年にバンカメとなった。

アメリカ合衆国が独立してからも国際貿易港であるボストンは栄え続けた。輸出品は従来と変わらずラム酒・魚・塩・タバコなどであった。当時、初期の入植者の子孫たちは、国の社会的・文化的エリートと見なされるようになり、後にアダムズ家などを輩出しボストン旧家と呼ばれた。彼らをふくむ保守派が、1786年に起こったシェイズの反乱をきっかけとして、アメリカ合衆国憲法を制定しようとする政治活動に発破をかけた。

ナポレオン戦争中に制定された1807年通商禁止法と1812年戦争により、ボストン・カナダ間の貿易業はかえって保護・独占的となり栄えたが、それは政府の規制が及ばなかったので戦時中も継続した。その間に製造業が市の経済の重要な要素となり、それは1800年代半ばまでに経済的な重要性において国際貿易を抜いた。1900年代初めまで、ボストンは全米で最大の製造業の中心地の一つとなり、被服・皮革製品の生産で知られた。市の周りを流れる小河川網によって市と周辺地域がつながれていたことで、商品の出荷が容易になり、工場の数は激増した。その後は緻密な鉄道網によってこの地域の産業・商業の発展が促された。



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