プロダクション人力舎
株式会社プロダクション人力舎(プロダクションじんりきしゃ)は、日本の芸能事務所。
沿革[編集]
1977年(昭和52年)、19歳からお笑いタレントのマネージャー一筋だった玉川善治が設立。社名は「人の力の在り処」というヒューマンな意味と駄洒落を込めている。
設立当初は劇団東京乾電池が所属。その後はシティボーイズ、マギー司郎、竹中直人、中村ゆうじ、B21スペシャルなどを世に送り出した。フリーのとんねるずもデビュー前に誘われた。
設立当初はキャバレーの仕事が多く、お笑いが徐々にテレビ番組へと移行していく端境期だった。玉川は45歳になるまで、所属タレント全員のマネージャーとしてスケジュール管理などを行っていた。
1992年(平成4年)、シティボーイズとB21スペシャルを独立させた際に戻ってきた資金で、若手芸人育成を目的として東京初のお笑い専門学校『スクールJCA』を設立した。現在、テレビ番組を中心に活動している所属タレントのほとんどが同校出身者である。
2010年(平成22年)6月に玉川善治が死去し、長男で当時副社長だった玉川大が代表取締役に就任。
設立当初から東高円寺駅近くのIKビル3階に入居していたが(スクールJCAの稽古場も同じ階に併設)、2013年春に西新宿のコンシェリア西新宿 TOWER'S WEST2階へ移転した。同時にスクールJCAも同ビル地下へ稽古場を移転している。
社風[編集]
この事務所には芸人を売れるように育てようという意識がなく、スクールJCAを卒業したとしても更に自力でプロモートをかけなくてはならない。自主性は社員にも求められ、タレントの仕事内容は元より単独ライブ等のイベント・企画に関してもタレントと相談して決めていく。「独立してこそ一人前」という説があるが、売れたタレントには積極的に独立や移籍を奨めていた。実際、シティボーイズやB21スペシャルらは独立したが1990年代以降は売れて移籍した芸人はほとんどいない。ただ、簡単に独立できるわけではなく12ヶ月連続で月収1000万円以上が続く事が絶対条件。また、マネージャーと共に独立した場合はそのマネージャーの最初の給料は玉川が決めていたという。マネージャーがそのタレントとの独立を望まない場合は人力舎に残ることも可能である。
上下関係は厳しくなく、後輩が先輩に対して「さん」付けしたり、テレビ番組内で「後輩が先輩に敬語を使う(人力舎の場合では、プライベートでは後輩が先輩に対して敬語を使用しないことはごく普通である)」程度。ライブの関係者席だと知らずに芸人が座って叱られたりなど、しきたりやマナーについても指導される機会があまりなく無頓着。ただし他の事務所の芸能人と共演する際は先輩への挨拶・敬語等が不可欠なため、東京03が『オールスター感謝祭』へ出演した際、事前に挨拶しなかった事で司会の島田紳助から生放送中に恫喝された一件がスポーツ新聞の一面で報じられた。
所属芸人はコント専門、もしくはコント中心に活動するコンビ・グループが多い。そのことから「コントの人力舎」と称される事がある。代表例として東京03とキングオブコメディがキングオブコントを制覇するなど、実力は高い。その影響か「バカ爆走!」を始め事務所のライブでは普通のライブとは異なり、芸人が登場する際に拍手をしないのが定着している。また、おぎやはぎがM-1グランプリの決勝に進出してからは漫才でも活躍する芸人も増えており、アンタッチャブルがM-1グランプリを制覇するなどしている。
事務所ライブは「バカ爆走」、金曜日と土曜日に行われる「どっきん!」がある。
「爆笑お笑いフェス!!」(運営はグッドラック・プロモーション)という地方でのお笑いライブは、人力舎営業部長の早坂須美子が同社だけでなくマセキ芸能社や、グレープカンパニーなどを含めた出演芸人のキャスティングをしているため「早坂営業」と呼ばれている。
年に一度のペースで刑務所慰問も行っている。
所属タレント[編集]
過去在籍含む。
お笑いグループ[編集]
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ピン芸人[編集]
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俳優・女優・その他タレント[編集]
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JCAプロモーション[編集]
かつて存在した下部組織。スクールJCA卒業生はJCAプロモーションを経て正式所属となるのが恒例となっていたが、その制度は2017年頃に廃止された。