パレスチナ
パレスチナ(アラビア語: فلسطين、ヘブライ語: פלשתינה)は、西アジアの地理的地域であり、通常はイスラエル、ヨルダン西部の一部、ヨルダン川西岸地区、ガザ地区を含むと考えられている。
パレスチナという名前は古代ギリシャの作家が使っていたもので、後にローマ帝国のシリア・パラエスティナ州、ビザンチン帝国のパラエスティナ・プリマ州、イスラム帝国のジュンド・フィラスティン州にも使われた。この地域は、聖書に登場する「イスラエルの地」(ヘブライ語: ארץ־ישראל)、「聖地」、「約束の地」として知られる地域の大部分を占めており、カナン、シリア、アッシュ・シャム、レバントなどの広い地域名の南側に位置している。
エジプト、シリア、アラビアの分かれ目に位置し、ユダヤ教とキリスト教の発祥の地でもあるこの地域は、宗教、文化、商業、政治の交差点として波乱に満ちた歴史を持っている。古代エジプト人、カナン人、イスラエル人、ユダヤ人、アッシリア人、バビロニア人、アケメネス朝、古代ギリシャ人、ユダヤ人のハスモン朝王国、ローマ人、パルティア人、ビザンチン人、サーサーン朝、アラブのラシドゥン、ウマイヤ朝、アッバース朝、ファーティマ朝イスラム帝国、十字軍、アイユーブ朝、マムルーク朝、モンゴル帝国、オスマン帝国、イギリス帝国、そして現代のイスラエル人、ヨルダン人、エジプト人、パレスチナ人など、多くの民族に支配されてきた。
この地域の境界は、歴史の中で変化してきた。今日、政治的に定義されたこの地域は、イスラエルとパレスチナの州(=パレスチナ自治区)で構成されている。
範囲[編集]
歴史的には、現代の国家でおおよそイスラエルとパレスチナ国(パレスチナ自治区)、東部の砂漠地域を除くヨルダン、レバノンとシリアの一部(おおむねシリア地域南部)を指す。特に、旧国際連盟イギリス委任統治領パレスチナにあたる、現在のイスラエル、パレスチナ自治区、ヨルダンを指すこともある。
第二次世界大戦後は、より狭く、ヨルダン川より西の、現在のイスラエルとパレスチナ自治区(古代のカナン地域を含む)を指すことが多い。パレスチナ人とはこれらの地域の人々だが、後述するようにパレスチナ人と呼ばれるには地理的な条件以外も必要である。
最も狭義では、国際司法裁判所 (ICJ) が「占領されたパレスチナ領域」と呼称し、パレスチナ国が自国の領土であると主張している地域を指す。これは地理的には一つながりではなく、イスラエルを挟んでヨルダン川西岸地区とガザ地区に分かれている。
アメリカ合衆国大統領トランプ政権が提示した和平案では、パレスチナの飛び地(英語版)はスイスチーズと揶揄され拒否された。
イスラエルは、境界にヨルダン川西岸地区の分離壁を建てている。
歴史[編集]
古称は、「カナン」という。 その後ペリシテ人という民族が沿岸部に住むようになり、パレスチナという言葉はこのペリシテ(Philistines)という言葉がなまったものと考えられている。
紀元前15世紀、古代エジプトのファラオ・トトメス3世が、メギドの戦いで勝利、パレスチナはエジプトの支配下に置かれた。
紀元前13世紀頃には、ペリシテ人によるペリシテ文明が栄えていたが、ペリシテ人は民族集団としてはその後滅亡し、その後紀元前10世紀頃にイスラエル民族によるイスラエル王国がエルサレムを中心都市として繁栄した。
紀元前930年頃に、イスラエルは北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した。イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアのサルゴン2世に滅ぼされた。もう一つの南のユダ王国は、紀元前609年のメギドの戦いでヨシアが、エジプトのファラオ・ネコ2世に敗死させられ、エジプトの支配下に置かれることになる。さらに紀元前597年には東より攻めてきたバビロニアの支配下に置かれ、紀元前587年にはそのバビロニアに滅ぼされた。
これ以後も三大陸の結節点に位置するその軍事上、地政学上の重要性から相次いで周辺大国の支配を受けたが「パレスチナ」という呼称自体は根強く残っており、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』では、『創世記』の内容を引用する形で各地の地名の由来を説明する際、ミツライム(注:ヘブライ語でのエジプトを指す)の系統で唯一今日(注:1世紀後半)に残った名前として「パレスチナ」の名を挙げている。 ローマ帝国内では当初この辺の行政区分はシリア属州(パレスチナ以外に北東部の中東内陸の地域も含む)とユダヤ属州と呼ばれていたが、135年にバル・コクバの乱を鎮圧したローマ皇帝ハドリアヌスは、それまでのユダヤ属州名を廃し、属州シリア・パレスチナ (en:Syria Palaestina) と改名した。
7世紀にはイスラム帝国が侵入し、シリアを支配する勢力とエジプトを支配する勢力の戦争の舞台となった。11世紀にはヨーロッパから十字軍が派遣され、エルサレム王国が建国されるが、12世紀末にはアイユーブ朝のサラーフッディーンに奪還され、パレスチナの大半はエジプトを支配する王朝が治めた。16世紀になると、エジプトのマムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国がパレスチナの支配者となる。オスマン帝国ではパレスチナはシリアと呼ばれた。
19世紀以降、ヨーロッパで次々に国民国家が成立し、各地で民族の自己認識が促されると、ユダヤ人もオスマン帝国領のパレスチナに入植し始めた。第一次世界大戦でオスマン帝国は崩壊し、シオニズムに押された大英帝国と列強は国際連盟で「ユダヤ人のナショナル・ホームをパレスチナに確立する」としてイギリス委任統治領パレスチナの創設を決議した。イギリス委任統治領メソポタミアのようにパレスチナという古い呼称を復活させたのはマーク・サイクス(英語版)の方針であった。パレスチナの初代高等弁務官はユダヤ人のハーバート・サミュエルが選ばれた。第二次世界大戦後、ホロコーストで同情を集めたシオニズムに押されてアメリカ合衆国などの国は国際連合でパレスチナ分割決議を採択した。それに伴いイスラエルが建国され、反発したアラブ諸国とイスラエルとの間で第一次中東戦争が勃発、イスラエルが勝利しパレスチナの8割を占領するに至る。この時期に多くのパレスチナ人が難民化してパレスチナ問題が発生。
1967年に起こった第三次中東戦争では、イスラエルがさらにガザ地区、ヨルダン川西岸地区を占領。
1987年には第一次インティファーダが勃発。
イスラエル政府とパレスチナ解放機構 (PLO) は長い闘争の末、1993年になってオスロ合意を結び、1994年からパレスチナの一部でPLOのヤーセル・アラファート大統領が主導する自治が開始された。しかし、オスロ合意で定められたパレスチナ問題の包括的解決に向けた話し合いは頓挫し、さらにイスラエルとの和平に合意しない非PLO系の組織によるテロや軍事行動が続いた。2000年以降、再びイスラエルとパレスチナ自治政府との間でゲリラ戦が再燃し、和平交渉が事実上の停止状態にある。
一方、パレスチナ自治政府側は、停戦に応じても、イスラエルが一方的に攻撃を続けていると指摘。実情は、「停戦とはパレスチナ側だけに課せられたもの」となっていると主張している。たとえば、2001年、イスラエルのアリエル・シャロン首相はパレスチナ自治政府との交渉停止を通告し、アラファート大統領を軟禁。再開に「7日間の平穏」とさらに「6週間の冷却期間」を要求した。しかし、平穏が達成されたかどうかは、イスラエル側が判断するとした。パレスチナ自治政府側の停戦は37日間続き、ハマースが反撃したため、なし崩し的に停戦は消えてしまった。
アラファートの死後、マフムード・アッバースが後継者となった。2005年2月8日、2000年10月以来4年4ヶ月ぶりにシャロン首相は首脳会談に応じた。両者の暴力停止(停戦)が合意されたが、交渉再開は停戦継続を条件としている。現在でも双方の攻撃が完全に収まったわけではなく、困難が予想される。
地方行政区分[編集]
地域区分[編集]
- ガザ地区
- ヨルダン川西岸地区
- 東エルサレム(イスラエルが実質支配している)
地方政府[編集]
ガザ地区
- 北ガザ県
- ガザ県
- ディール・バラフ県(ダイル・アル=バラフ)
- ハーン・ユーニス県
- ラファフ県
ヨルダン川西岸地区
- エルサレム県(アル=クドゥス)
- エリコ(アリーハー)
- カルキーリーヤ県
- サルフィート
- ジェニーン県
- トゥールカリム県
- トゥーバース
- ナーブルス県
- ベツレヘム県(ベート・ラハム)
- ヘブロン県(アル=ハリール)
- ラマッラー・アル=ビーレ県
市[編集]
ガザ地区
- ガザ市
- ハーン・ユーニス
- ジャバリア
- ラファフ
- デイル・アル・バラフ(英語版)
ヨルダン川西岸地区
- ヘブロン(アル=ハリール)
- ナーブルス
- トゥールカリム(英語版)
- ジェニーン(英語版)
- カルキーリヤ(英語版)
- ベツレヘム(ベート・ラハム)
- ラマッラー
- エリコ(アリーハー)
交通機関[編集]
- ヤーセル・アラファト国際空港(閉鎖中)