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バンコク

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バンコク(泰: บางกอก、英: Bangkok)は、タイ王国の首都。タイではクルンテープの通称で呼ばれている。

正式名称はクルンテープ・マハーナコーン

人口8,249,117人(2010年)、面積1568.737 km2。都市圏人口は2018年時点で1600万人を超えており、世界有数の大都市圏を形成している。ASEAN経済の中心地で、東南アジア屈指の世界都市でもある。

タイの王宮や政治の中枢機関が集中しているだけでなく、交通と宿泊施設の整ったバンコクは多くの各国要人を招き、アジアで2番目に多くの国際会議が開かれる都市であり、政治的に多大な影響力を持つ。

名称[編集]

バンコクの儀式的正式名称は非常に長く、下記のとおりである。

バンコクの儀式的正式名称


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กรุงเทพมหานคร อมรรัตนโกสินทร์ มหินทรายุธยา มหาดิลกภพ นพรัตนราชธานีบูรีรมย์ อุดมราชนิเวศน์มหาสถาน อมรพิมานอวตารสถิต สักกะทัตติยวิษณุกรรมประสิทธิ์
クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット

あまりにも長いため、タイ国民は最初の部分をとり『クルンテープ』と呼んでいる。タイ語は後置修飾が基本であるので、意味は後ろの節から訳し、以下のようになる。

イン神(インドラ、帝釈天)がウィッサヌカム神(ヴィシュヴァカルマン神)に命じてお作りになった、神が権化としてお住みになる、多くの大宮殿を持ち、九宝のように楽しい王の都、最高・偉大な地、イン神の戦争のない平和な、イン神の不滅の宝石のような、天使の大都

参考までにハース方式の発音記号(声調略)を挙げると、以下のようになる。なお、太字はラーイ詩形によって韻が踏んであるところである。

[kruŋ theep mahaanakhɔɔn amɔɔnrattanakoosin mahintharaayutthayaa mahaadilok phop noppharat raatchathaanii burii rom udomraatchaniweet mahaasathaan amɔɔn phimaan awataan sathit sakkathattiya witsanukam prasit]

この儀式的名称はラーマ1世が遷都の際つけられた。後のラーマ4世は「イン神の卓越した宝石」すなわちボーウォーンラッタナコーシンの部分をアモーンラッタナコーシンすなわち「イン神の不滅の宝石」と変更させた。

その後、1916年いわゆるムアンをチャンワット(県)と呼ばせるようになる とバンコク(現在のトンブリー地域を除く)は県庁在地のプラナコーン郡にちなんでプラナコーン県と呼ばれ、儀式上と行政上の名称が完全に分離した。

1971年のタノーム元帥は革命後、同年の12月21日の革命団布告によってプラナコーン県とトンブリー県を融合しナコーンルワンクルンテープトンブリーと改称した、さらに翌年の革命団布告によってクルンテープ・マハーナコーンと改称された。現在はこの略称としてクルンテープ(「天使の都」の意)がよく使われている。

日本語や英語で慣用されるバンコクの語は、「バーンマコーク」が訛った「バーンコーク」がさらに訛ったものである。バーンマコークとは「アムラタマゴノキの水村」という意味である。

一般にはアユタヤ王朝時代、トンブリー(チャオプラヤ川を挟んでバンコク中心部の対岸側)にある要塞に駐屯していたポルトガル傭兵団がこの地の地名を現地人に訪ねたところこの名前が答えとして返ってきたが、バーンコークは固有名詞ではなく普通名詞なのでこれが誤って広まり定着したとされる。一方、17世紀のフランスの外交官、シモン・ド・ラ・ルベールは本当の名前であるトン(ブリー)を外国人から隠すためにわざとバンコクという名を用いているとしている。いずれにせよ、外国ではこの地をバンコクと呼ぶことが定着した。

なお、タイ語のバーンコークであるが、現在ではトンブリー側にある一地域を指す言葉であって、タイ語のバーンコークは外国語のバンコクではない。

日本語ではバンコックバンコークとも表記される。また漢字表記は曼谷盤谷の2通りがある。

歴史[編集]

チャクリー朝[編集]

バンコクの歴史は1782年、ラーマ1世がタークシンを処刑しそれまでのトンブリーからチャオプラヤー川の対岸に首都を移したことに始まる。 ラーマ1世が遷都した理由として、トンブリーがチャオプラヤー川西岸にあり、当時チャオプラヤー川周辺に勢力を広げようとしていたビルマのコンバウン王朝(現、ミャンマー)の進入が容易だったからである。

バンコクの建設は6月10日午前6時45分にラックムアン(市の柱)が建てられ始まった。建設主任はチャオプラヤー・タンマーティコーン (ブンロート)とし、3年後に建設が終了した。 アユタヤと同じく王宮や関連施設を含む土地の周囲には運河が掘られラッタナーコーシン島と呼ばれる人工の島を形成した。この島の中には王に許された者のみ住むことが出来た。 記録によれば、当時ラッタナコーシン島に居住していたのは王族を除けばタイ族ではなく「王室華人」と呼ばれた潮州系の華人であった。

建国当初はラッタナコーシン島のみがバンコクの中心として機能していたが、タイの経済発展と共に市街地は東へ延びていった。またラーマ5世(チュラーロンコーン)の時代にすでにラッタナコーシン島の王宮のみでは妻や子供を十分に収容することが出来ないため北にドゥシット宮殿群を建設している。チュラーロンコーンの子供はさらに北にバーンクンプロム宮殿、スコータイタンマティベート宮殿などを建設している。

また、経済の中心もチャクリー王朝初期には当時ラッタナコーシン島から運河を挟んで東側のヤオワラートにあったが、20世紀後半にシーロム通りに中心が移った。そのためラッタナコーシン島周辺は現在、旧市街地と見なされることが多い。

建設からラーマ5世時代までは、バンコクはチャクリー王朝の王による直轄地であった。しかしラーマ5世の以降市街地が拡大を始めたため、チャクリー改革によって、バンコクは畿内省という機関の管轄に置かれることになった。

現代[編集]

都市の拡大

1972年には、拡大が進みバンコクの行政機関の手に負えなくなっていたノンタブリー県、サムットプラーカーン県、パトゥムターニー県がバンコクから分離。 一方で1975年にはバンコクと経済的に密な関係にあったトンブリー県がバンコクに吸収されている。その間にもさらにバンコクの市街地の拡大が進んだ。

とくに1980年代にはタイ国内の投資が拡大し、タイの経済の中心であるバンコクも必然的に発展する事になった。 バンコクは特に目立って教育が普及しリベラルな住民が増えたため内務省の直接統治も難しくなった。このため1985年に『仏暦2528年バンコク首都府行政組織法』が国会で成立。これ以降、住民に選ばれた知事による自治が行われている。

地理[編集]

気候[編集]

バンコクは熱帯に位置し、年間を通じて最高気温は34℃前後、最低気温は通常25℃前後。バンコクの季節は三つに分かれる。一つ目が、6月から10月にかけて蒸し暑く雨の降る雨季である。1日に何度もスコールがある。二つ目は、11月から2月のやや涼しく過ごしやすい乾季である。とりわけ12月から2月は雨がほぼ降らず、気候も安定している。三つ目は、3月から5月にかけての雨が少なく非常に高温となる暑季である。朝から気温が上昇し、夜間も気温が下がらない。

最高気温極値は41.0℃(2023年5月7日)。最低気温極値は9.9℃(1955年1月)。

ケッペンの気候区分ではサバナ気候(Aw)に属す。



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