バレエ
バレエ(仏: ballet)は、西ヨーロッパで発生し広まった、歌詞・台詞を伴わない舞台舞踊。及びその作品を構成する個々のダンス。
音楽伴奏・舞台芸術を伴いダンスによって表現する舞台である。物語性をもち、複数の幕をもつ舞踊劇が多い(「くるみ割り人形」「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「ドン・キホーテ」など)。しかし20世紀以降には物語性を否定する作品も生まれた。一方で短い小品でありながら優れた物語性をもつものもある(「瀕死の白鳥」など)。事前に振付家によってバレエ独特の所作を指定されたものを演じ、即興作品は少ない。振付の仕方を振付術(コレオグラフィー)という。
- バレエに関係する芸術家や専門家たち
バレエの上演に関係する芸術家には、バレエ音楽の作り手である作曲家、踊り方(ダンスも含む)を指定する振付家、指揮者を含むバレエ音楽の演奏家、そして舞踊によってバレエを実現し完成させるバレエダンサーなどがいる。→#作曲家、#振付家、#バレエダンサー
バレエの歴史[編集]
起源[編集]
ルネッサンス期のイタリアに起源を発する。当時、宮廷では余興として詩の朗読、演劇などが演じられていたが、その一部としてバロ(Ballo)と呼ばれるダンスが生まれた。宮廷の広間で貴族たちが歩きながら床に図形を描いていくもので、それをバルコニーから眺めるのが当時の楽しみ方であった。
1463年、グリエルモ・エブレオ『舞踏芸術論』のなかでバレット(Balletto)という語が初めて用いられている。
1496年にはレオナルド・ダ・ヴィンチが衣裳と装置を担当した「楽園」が初演された。
16世紀、ジョヴァンニ・ジャコモ・ガストルディにより世俗合唱曲が流行すると、その歌に踊りを加えたバレット(Balletto)が生まれ、やがてバレッティ(Balletti)と呼ばれるようになった。
ドメニコ・ダ・ピアチェンツァ(ドイツ語版)など舞曲の作曲家や、ドメニコ・ダ・フェッラーラ(フェラーラ侯レオネルロ・デステ(ポーランド語版)に仕えた)などの舞踏教師が登場し、イタリアの貴族が盛んに舞踏会を開催したことが分かる。
バレエの誕生[編集]
1533年、イタリア、フィレンツェのメディチ家からフランス王室に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスによりバレッティがフランスにもたらされ、バレ(Ballet)と呼ばれた。
1573年「ポーランド人のバレエ」(演出・振付:バルタザール・ド・ボージョワイユー)が初めてバレ(Ballet)と称している。
1581年の「王妃のバレエ・コミック(英語版)」(演出・振付:バルタザール・ド・ボージョワイユー)は、完全に記録に残っている最初のバレエ作品である。これらを皮切りに、バレエは宮廷において盛んに踊られるようになり、16世紀末から17世紀初頭の20年間で約800のバレエが上演されたと言われる。
1643年、ルイ14世が4歳でフランス国王に即位した際には、数時間にも及ぶ豪華絢爛なバレエが催され、ルイ14世自らが出演した。ルイ14世はバレエに熱中し、1653年15歳の時に『夜のバレエ』のアポローン役で本格的に舞台デビュー。よりバレエの質を上げようと、1661年に王立舞踏アカデミー(英語版、フランス語版)を創立した。ルイ14世の舞踏教師ピエール・ボーシャンによってポジションが定められ、舞踏符が確立されるなど、バレエがダンスとして体系づけられたのもこの頃である。
宮廷から劇場へ[編集]
1670年にルイ14世が舞台から引退すると、バレエは宮廷から劇場に移り、職業ダンサーのダンスに変化していった。
1671年、オペラ座が設立(当時のバレエはオペラと一体であった)。
1681年、『愛の勝利』で最初の女性ダンサー、ラ・フォンテーヌが劇場に登場し、18世紀に入るとマリー・カマルゴ、マリー・サレなど女性職業ダンサーが続々とオペラ座からデビュー。宮廷バレエでは男性ダンサーが中心だったが、1726年、マリー・カマルゴが足先の見える衣装と踵を取り去った靴を用いて、男性のみの技法であった跳躍をし、女性ダンサーが人気を博するようになった。
1700年に最初のバレエ教本、ラウール=オージェ・フイエ による『舞踊術、あるいは記号、絵、記号による舞踊記述法』が出版され、1713年にはオペラ座にバレエ学校が創設されるなど、バレエ教育が確立。バレエの技法も複雑化していった。
1760年、ジャン=ジョルジュ・ノヴェールが『舞踊とバレエについての手紙』にてバレ・ダクシオン(ballet d'action)を提唱した。これにより、バレエはオペラから独立し、台詞のない身振り(ミーム)による舞台演劇として確立した。