ニッカウヰスキー
ニッカウヰスキー株式会社 (英: The Nikka Whisky Distilling Co., Ltd.)は、日本の洋酒メーカー。アサヒグループの機能子会社。
1934年(昭和9年)、広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)出身の竹鶴政孝によって北海道余市郡余市町に「大日本果汁株式会社」が設立され、同社の略称「」の片仮名書きが現在のブランド名になっている。2001年 (平成13年)、筆頭株主のアサヒビール株式会社(現在のアサヒグループホールディングス)が全株式を取得して完全子会社化された。ニッカウヰスキーが製造する商品の販売はアサヒビールが行なっている。
歴史[編集]
寿屋 (サントリーホールディングスやサントリースピリッツの前身) でウイスキー製造に従事していた竹鶴政孝が、スコットランドに近い気候の北海道でウイスキー作りをするために退社し、資本を集めて北海道余市で創業したのが始まりである。
1934年 (昭和9年) 7月2日、大日本果汁株式会社設立、本店 (本社) を東京府東京市大森区新井宿 (現在の東京都大田区山王) とし、資本金10万円で発足。
最初期の筆頭株主は、加賀証券社長の加賀正太郎。加賀は社内では「御主人様」と呼ばれ、創業者の竹鶴は専務と呼ばれた[要出典]。
ウイスキーは製造開始から出荷まで数年かかるため、経営基盤を固めるために最初期は余市周辺の特産品であったリンゴを原料に、リンゴジュース (商品名は「ニッカ林檎汁」)を製造・販売した。しかし、創業者竹鶴の品質へのこだわりはリンゴジュースにも及び、高価な果汁100%ジュースしか出荷しなかったため、あまり売れなかったという。リンゴジュースの不振をカバーするため、リンゴやブドウを原料にゼリーやケチャップなども販売した。
1935年4月に販売開始したリンゴジュースは、時間が経つと混濁する性質があり、そうなると当時の規制では販売できず、混濁したものは返品されることとなった。1935年10月、この返品されたリンゴジュースを原料にして、ブランデーおよび甘味林檎酒を製造することにしたが、竹鶴はブランデー製造時期外に蒸留器を遊ばせておくのはもったいないとして、大麦を仕入れてウイスキーも製造することにした。1936年8月にブランデー・ウイスキーの製造免許を取得、ブランデーとウイスキーの製造を行った。その後、追加の設備投資が必要になる本格的なウイスキー製造は、赤字が解消されるまではと見合わせたが、1939年に経営状況が改善されないままウイスキー製造を開始した。
1940年 (昭和15年) にウイスキーの出荷を開始。製品は「ニッカウヰスキー」と名づけられた。直後にウイスキーは統制品となり、大日本果汁は海軍監督工場となった。当時スコッチウイスキーの国内最大の消費者は帝国海軍であったが、イギリスからのウイスキー輸入が途絶えたため、日本国産ウイスキーへの需要が高まった。このときは将校への配給用の酒を製造するために優先的に原料の大麦が割り当てられたため、事業の継続が可能となった。
1943年 (昭和18年)、竹鶴政孝が社長に就任。
終戦後、他社から相次いで低質の三級ウイスキーが発売されるが、品質にこだわり、低価格商品を投入しなかったため再度経営が苦しくなる。加賀は経営上の理由から再三、三級の発売を要求[要出典]。1950年 (昭和25年) に三級ウイスキー (商品名「ニッカスペシャルブレンドウヰスキー」) を発売するが、原酒を当時の税法の制限いっぱいの5%ぎりぎりまで入れた。着色料も合成色素ではなく、自社生産したカラメルを使用した。
1952年 (昭和27年)、商号をニッカウヰスキー株式会社に変更し、本社を東京都中央区日本橋に移転。社名に使われている歴史的仮名遣の「ヰ」は、ウイスキーは水が命なので井戸の「井」を使って登記しようとしたところ、当時漢字とカタカナを混在させての社名登記ができなかったため、似たカタカナの「ヰ」を用いた。また、Whiskyの「wi」の発音に近いからという。同年、港区麻布 (2013年10月現在の六本木ヒルズ所在地) に東京工場を設置した。この工場は瓶詰めを行うためのものであった。余市から東京への輸送コストを抑えるのが主目的であるが、当時、ウイスキーは出荷時に課税されていたため、輸送時の破損分への課税を防ぐためにも、大消費地に瓶詰め工場を置くことが必要であった。
1954年 (昭和29年)、ニッカは銀行からの融資を断られようになっており資金面で苦しい状況におかれていた。また、大株主であり取締役でもある加賀正太郎は健康上の問題を抱えていた。このような状況から、加賀は自身に代わるニッカの後ろ盾となる存在が必要だと考え、長年の交友がある朝日麦酒社長の山本爲三郎にかけあい、朝日麦酒の資本参加を実現させた。この資本参加で、主要株主の加賀家・芝川家保有株式から、発行済株式の半数にあたる株式が朝日麦酒に譲渡された。御主人様とまで呼ばれた事実上の社主の突然の行動に、ニッカ社内は騒然となるが、社長の竹鶴は、当時の朝日麦酒社長が知人であることから全く動じなかった[要出典]。加賀は敢えて竹鶴の知人を売却相手に選んだのだと考えられている[要出典]。朝日麦酒は財務強化のために増資し、営業力強化のため弥谷醇平を派遣したが、経営介入はほとんどなかった。
当時、ニッカの二級ウイスキー (かつての三級ウイスキー) は他社製より高く、あまり売れていなかった。弥谷が「全国売上が87%伸びれば価格を下げても黒字になる」と竹鶴を説得。1956年 (昭和31年)、新二級ウイスキーの「丸壜ニッキー」 を競合と同価格で発売した。積極的なセールス活動を行った結果、ニッカの二級ウイスキーの売り上げは1年で倍増し、ニッカの販売額も業界3位から2位に浮上した。またこれにより他社のセールス活動も激化。ウイスキー販売戦争となった。当時、洋酒ブームが起きており、ニッカ以外も含めた日本でのウイスキー消費量全体も増加した。
1959年 (昭和34年) 朝日麦酒による増資支援をうけて西宮工場を開設。1962年 (昭和36年) 朝日麦酒の全額出資により、ニッカへグレーンスピリッツを供給することを目的とした朝日酒造株式会社を設立、1964年 (昭和38年) 西宮工場隣接地に朝日酒造の工場が完成し、グレーンウイスキーが製造できるようになりブレンドの幅が広がった。朝日酒造は1969年 (昭和44年) にニッカウヰスキーに吸収合併された。1999年 (平成11年) グレーンウイスキー製造設備は仙台工場に移設された。
1960年 (昭和35年)、朝日シードル株式会社の事業を朝日麦酒より譲受され、創業時から手がけていたアップルワインやアップルブランデーなどりんご製品の製造を1965年 (昭和40年) までに余市から弘前工場に移管した。
1964年 (昭和39年)、日本初のモルトウイスキーとグレーンウイスキーをブレンドした二級ウイスキー (当時)「ハイニッカ」を発売。翌1965年 (昭和40年) には同じく2種のウイスキー原酒をブレンドした一級ウイスキー (当時)、新「ブラックニッカ」を発売する。ハイニッカ、新ブラックニッカに対し、業界首位のサントリーも対抗製品を発売して応戦。再びウイスキー販売戦争が起こった。
1967年 (昭和42年)、東京工場は拡張の余地がないうえ、道路用地収容によりむしろ縮小することになったため、新東京工場 (現・柏工場) を千葉県柏市に開設。旧東京工場は施設を改築し、麻布工場に改称した。
1969年 (昭和44年) には、余市蒸溜所に続いて2番目の蒸溜所となる宮城峡蒸溜所 (仙台工場) が宮城県宮城郡宮城町 (現・宮城県仙台市青葉区) に開設。この工場の建設候補地を見学に来た際、創業者の竹鶴政孝が、この地を流れていた新川川の流れを見て、突然、その水でブラックニッカの水割りを作って飲みはじめ、その場で建設を決めたという。このとき、竹鶴はその川の名が新川ということを知らなかった。地元の人に川の名を尋ねると、「にっかわ」という答えが返ってきたので、何故、既にニッカが工場を作ることが知られているのかと驚いたという逸話も残っている[要出典]。
1989年 (平成元年)、東証二部上場。操業を停止していたスコットランドのベン・ネヴィス蒸溜所を買収。
2001年 (平成13年)、アサヒビールがニッカの全株式を取得。完全子会社化した。
2011年 (平成23年) 7月1日に親会社のアサヒビール株式会社 (初代法人) は持株会社移転により「アサヒグループホールディングス株式会社」に商号を変更し、ニッカはアサヒビール株式会社 (二代目法人) の機能子会社となった。
2015年 (平成27年) ニッカウヰスキーは、「インターナショナル・スピリッツ・チャレンジ2015」にて、優れた酒造メーカー1社にのみ贈られる“ディスティラー・オブ・ザ・イヤー”を受賞。
2022年 (令和4年)8月1日付で本社をアサヒグループホールディングスと同じ墨田区へ移転したほか、同年9月1日付で登記上の本店を余市町へ移転した。
沿革[編集]
- 1934年 (昭和9年)
- 7月2日 - 大阪市の芝蘭社家政学園にて大日本果汁株式会社設立総会開催 、資本金を10万円として、本店を東京府東京市大森区新井宿に置く。
- 10月 - 北海道余市郡余市町に北海道工場 (余市蒸溜所) を創業。
- 1935年 (昭和10年) 4月 - 「ニッカ林檎汁」販売開始。
- 1936年 (昭和10年) - ブランデー・ウイスキー製造免許取得。
- 1937年 (昭和12年) 8月 - 販売会社百華事業株式会社を設立。
- 1938年 (昭和13年) 9月 - 「ニッカアップルワイン」販売開始。
- 1940年 (昭和15年) 6月 - 「ニッカウヰスキー」、「ニッカブランデー」販売開始。ウイスキー販売の開始。
- 1944年 (昭和19年) 12月 - 百華事業株式会社を合併。
- 1950年 (昭和25年) 8月 - 「ニッカスペシャルブレンドウヰスキー」 (3級) 販売開始。
- 1952年 (昭和27年)
- 3月 - 瓶詰を目的とした東京工場を東京都港区麻布に開設。
- 4月 - 本社を東京都中央区日本橋に移転。
- 8月 - 商号をニッカウヰスキー株式会社に変更。
- 1954年 (昭和29年)
- 未詳 - 北海道支店を札幌に移転。
- 6月 - 大株主の加賀正太郎が朝日麦酒株式会社 (後のアサヒビール株式会社) に持ち株を売却。同社の傘下に入る。
- 8月 - アサヒビール株式会社が資本参加。
- 1956年 (昭和31年)
- 6月 - 「ブラックニッカ」 (特級) 販売開始。
- 11月 - 「丸びんニッキー」 (新2級) 販売開始。
- 1959年 (昭和34年) 9月 - 兵庫県西宮市に西宮工場が開設。
- 1960年 (昭和35年) 10月 - 朝日麦酒より朝日シードル株式会社の事業を譲受。青森県弘前市に弘前工場の操業開始。
- 1961年 (昭和36年)
- 12月 - アメリカのヒューブライン(英語版)社と技術提携。スミノフ・ウォッカの製造販売開始。
- 1962年 (昭和37年)
- 10月 - 「スーパーニッカ」販売開始。
- 11月 - イギリスからカフェ式(英語版)連続式蒸溜機を購入し、西宮工場に導入。琉球ニッカウヰスキー株式会社をアメリカ統治下の沖縄に設立。
- 1963年 (昭和38年)
- 3月 - イギリスのギルビー社と技術提携。
- 11月 - 「ギルビー・ジン」の製造販売開始。
- 1964年 (昭和39年) 2月 - 「ハイニッカ」販売開始。
- 1965年 (昭和40年)
- 5月 - 佐賀県鳥栖市に九州工場を開設。
- 9月 - 新「ブラックニッカ」販売開始。
- 1966年 (昭和41年) 3月 - 朝日シードル株式会社を朝日酒造株式会社に吸収合併。
- 1967年 (昭和42年) 6月 - 千葉県柏市に瓶詰を目的とした新東京工場 (後の柏工場) を開設。
- 1969年 (昭和44年)
- 4月 - 朝日酒造株式会社を吸収合併。
- 5月 - 宮城県宮城郡宮城町 (現・仙台市青葉区) に仙台工場 (宮城峡蒸溜所) を開設。
- 1970年 (昭和45年)
- 10月 - フランスのキューゼニア社と技術提携。
- 11月 - 新「スーパーニッカ」販売開始。
- 1972年 (昭和47年) 6月4日 - 社長の弥谷醇平死去。
- 1976年 (昭和51年) 11月 - 「鶴」販売開始。
- 1977年 (昭和52年) 9月 - 栃木プラント開設。
- 1979年 (昭和54年) 8月29日 - 創業者の竹鶴政孝が死去。
- 1982年 (昭和57年) 4月11日 - 東京都港区南青山に本社ビル完成・移転。
- 1984年 (昭和59年)
- 11月 - 「シングルモルト北海道」販売開始。国産初のシングルモルトウイスキー。
- 12月 - 生産技術研究所、新研究棟を建設。
- 1985年 (昭和60年) 10月 - 「フロム・ザ・バレル」販売開始。
- 1989年 (平成元年)
- 1月 - アメリカのジム・ビーム・ブランズ社 (現:ビーム サントリー) と提携。「ジム・ビーム」の輸入販売開始。
- 4月 - スコットランドのベン・ネヴィス蒸溜所を買収。
- 4月 - 「シングルモルト余市12年」販売開始。
- 6月 - 「シングルモルト仙台宮城峡12年」販売開始。
- 6月 - 九州工場を大分県日田市に移転。
- 9月 - 東証二部に上場。
- 12月 - フランスのドンピエール蒸溜所を買収。ブランデー原酒の製造開始。
- 1990年 (平成2年)
- 2月 - 「オールモルト」販売開始。
- 4月 - 韓国の宝梅醸造(朝鮮語版、英語版)と提携。
- 1991年 (平成3年) 7月1日 - 資本金を149億8,934万4,849円に増資。
- 1992年 (平成4年) 2月 - 柏工場に缶ラインを導入。
- 1998年 (平成10年)
- 4月 - 北海道工場にウイスキー博物館を建設。
- 6月 - 「ニッカウヰスキー34年」販売開始。日本国内最長熟成ウイスキー。
- 12月 - 琉球ニッカウヰスキー株式会社をアサヒビール株式会社へ譲渡。(現沖縄アサヒ販売株式会社)
- 1999年 (平成11年)
- 3月 - 生産向上を目的として九州工場操業停止。
- 8月 - 西宮工場に導入されたカフェ式連続式蒸溜機を仙台工場に移設。
- 2000年 (平成12年) 11月 - 「竹鶴12年ピュアモルト」販売開始。
- 2001年 (平成13年)
- 1月 - 上場廃止。
- 2月 - アサヒビール株式会社が同社の全株式を取得し完全子会社化。
- 4月 - 営業部門をアサヒビールに譲渡し製造一本となる。
- 12月7日 - 公式ホームページ
www.nikkawhisky.co.jp
を閉鎖し、www.nikka.com
へ一本化。
- 2002年 (平成14年)
- 7月 - 世界最大のウイスキー愛好者団体SMWSに余市蒸溜所が116番目の認定。イギリス以外の蒸溜所では初認定。
- 9月 - 北海道工場が「緑化優良工場」として経済産業大臣賞を受賞。
- 12月 - 余市郊外の山田町に存在した竹鶴邸を北海道工場内に移築。
- 2004年 (平成16年) 10月 - 北海道工場が北海道遺産に選定。
- 2005年 (平成17年) 2月 - 北海道工場の一部建物が有形文化財に指定。
- 2006年 (平成18年) 1月1日 - アサヒビールの子会社であったアサヒ協和酒類製造を吸収合併。福岡県北九州市門司区の門司工場を譲受し操業開始。
- 2011年 (平成23年)
- 7月1日 - アサヒビール株式会社が持株会社移転によりアサヒグループホールディングス株式会社となり、新法人となったアサヒビール株式会社の機能子会社となる。
- 7月 - 鹿児島県のさつま司酒造株式会社、山梨県のサントネージュワイン株式会社が同社の傘下に入る。
- 2014年 (平成26年) 12月17日 - 竹鶴威 (相談役) が死去。
- 2017年 (平成29年) 3月29日 - 2017年2月に設立した農業生産法人「サントネージュ・ニッカ余市ヴィンヤード株式会社」を通じて、北海道余市町に、日本ワイン用ぶどう畑の農地を取得。
- 9月1日 - さつま司酒造株式会社を吸収合併。
- 2021年(令和3年)8月31日 - サントネージュワイン全株式をサン.フーズへ譲渡。サントネージュワイン株式譲渡に伴い、翌9月1日付でサントネージュ・ニッカ余市ヴィンヤード株式会社の商号をニッカ余市ヴィンヤード株式会社へ変更。
- 2022年 (令和4年)
- 8月1日 - 本社をアサヒグループホールディングスと同じ墨田区吾妻橋のアサヒビール本社ビルへ移転。
- 9月1日 - 登記上の本店を北海道余市町へ移転。
- 2024年 (令和6年)
- 3月 - 西宮工場操業終了 (予定)。以後、ニッカウヰスキーのオリジナル製品の製造・出荷に関しては千葉の柏工場に集約される。
歴代マスターブレンダー[編集]
- 初代 - 竹鶴政孝
- 第2代 - 竹鶴威
- 第3代 - 佐藤茂生
- 第4代 - 山下弘
エンブレム[編集]
ニッカ製ウイスキーには、一見イギリス風のエンブレムが描かれている。これは竹鶴政孝がスコットランドに留学したとき王室に献上するウイスキーのエンブレムからヒントを得てデザインを考えたものである。一見すると洋風なデザインであるが、左右一頭ずつ中央を向いているのは魔除けの印である狛犬、中央の兜は武芸を意味する山中鹿介が使用した兜、その下の「NIKKA」の文字周辺の模様は文化を表わす市松模様と、日本の伝統的なデザインを用いたエンブレムとなっている。
CM出演者[編集]
現在[編集]
- (2021年2月現在該当なし)
過去[編集]
- ダークダックス 1954年 – 1959年頃 - ニッカウヰスキーの歌
- 沢本忠雄(ハイニッカ、ブラックニッカ)1963年 - 日本のCMの手法(1965年)も参照
- (女性アナウンサー)1964年 - 「ニッカウヰスキーのふるさとは北海道余市」民放大会賞受賞ラジオCM
- 北大路欣也(ホワイトニッカ) 1968年
- 越路吹雪(G&G白びん)1968年
- 五代目春風亭柳朝(ブラックニッカ)
- 團伊玖磨(ブラックニッカ)
- 赤塚不二夫(G&G白びん) 1974年
- 室田日出男 (ヒゲのLびん) 1975年
- 川谷拓三 (ヒゲのLびん) 1975年
- ザ・ソウル・トレイン・ギャング(英語版) (黒の、50) 1975年 – 1976年
- 桃井かおり (ニッカアップルワイン) 1976年 - 演出:倉本聰
- オーソン・ウェルズ (G&G黒びん) 1976年 - BGM:第三の男のテーマ
- 男優二名 (お中元にニッカ) 1976年 - BGM:ニッカ「お中元」(美空ひばり)/作詩:伊藤アキラ/作曲:いずみ進 (かとう哲也)
- ポール・アンカ (スーパーニッカ) 1977年
- 篠沢秀夫(クロカクニッカ) 1979年
- 多数の外国人(ニッカブランデーV.S.O.P"白") 1970年代末 – 1980年代 - 「幸せいっぱいヨーロッパ」
- 草刈正雄 - 親会社・アサヒビールのCM(博多蔵出し)にも出演。
- (ハイニッカ) 1978年 – 1981年 - BGM:ハイニッカオリジナルソング
- (ハイニッカ) 1982年 BGM:泣いた数だけ幸せに (小林旭)
- 中村久美(ハイニッカ) 1979年 - 草刈正雄と共演。
- 谷村新司(スーパーニッカ) 1980年 - BGM:昴(谷村新司)
- 根津甚八( ブラックニッカ) 1980年 - BGM:FAR AWAY (ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド)
- ロッド・スチュワート(黒の、50) 1982年
- トロイ・ドナヒュー(スーパーニッカ) 1982年 - BGM:Surf Side 6
- 懐かしの海外ドラマを再現した「スーパーメモリーシリーズ」の一つ。『サーフサイド6』より。
- コニー・スティーブンス(英語版)(スーパーニッカ) 1982年 - BGM:Hawaiian Eye
- 同じく「スーパーメモリーシリーズ」の一つ。『ハワイアン・アイ』より。
- キッドクレオール&ココナッツ(英語版) (黒の、50) 1983年
- C.W.ニコル(スーパーニッカ) 1983年 - BGM:And I Believe In You、Are You Receiving Me ?、蜉蝣、前兆(まえぶれ)(高橋幸宏)/ナレーション:滝田栄
- アポジー&ペリジー(マイルドニッカ) 1983年 - ロボットキャラクター/BGM:VOYAGER〜日付のない墓標(松任谷由実)
- 製品のみ(ニッカキングスランド) 1983年 - BGM:贈り物(樋口康雄)
- ロイ・シャイダー(スーパーニッカ) 1984年 - BGM:?(樋口康雄)/演出:林靖夫
- エルボウ・ボーンズ&ザ・ラケッティアーズ(英語版) (黒の、50) 1984年 - BGM:?/ナレーション:金曜日眠るなどとは俗なこと/タイトル:十夜一夜都市
- アポジー&ペリジー (マイルドニッカ) 1984年 - ロボットキャラクター/声:下条アトム(アポジー)、戸川純(ペリジー)/BGM:月世界旅行(三宅裕司、戸川純)
- ヨーゼフ・ボイス(スーパーニッカ) 1985年 - BGM:ポエジー(加古隆)/ナレーション:私はおいしいウイスキーを知っています。
- 製品のみ (フロム・ザ・バレル) 1985年? - BGM:ポエジー(加古隆)/ナレーション:私はおいしいウイスキーを知っています。
- 白井貴子(ニッカシードル) 1985年 - BGM:CHECKしてしまった!!(白井貴子 & Crazy Boys)
- キャスリーン・バトル
- (スーパーニッカ) 1986年 - BGM:オンブラ・マイ・フ(キャスリーン・バトル) /演出:実相寺昭雄
- (スーパーニッカ) 1986年 - BGM:In Trutina(英語版) (キャスリーン・バトル)/演出:実相寺昭雄
- (ザ ブレンド オブ ニッカ) 1987年 - BGM:ポプラの林へ行ってきた (スペイン語版ウィキソース) (キャスリーン・バトル)/演出:実相寺昭雄
- (ザ ブレンド) 1988年 - BGM:Care selve(英語版) (キャスリーン・バトル)/演出:実相寺昭雄
- 製品のみ (ニューブレンド・ハイニッカ) 1986年 - BGM:わたしを棄てたらこわいよ(内藤やす子)
- 映像は大河内伝次郎主演無声映画『血煙高田馬場』を流用。
- 志水季里子(ニッカシードル) 1986年 - BGM:現代の女 (樋口康雄)/ギター:直居隆雄/演出:実相寺昭雄
- 製品のみ (モルト&ライコネクション) 1987年 - BGM:?/ナレーション:新しいまろやかさには風と波のうねりを感じるのです。
- 中野良子(オールモルト) 1989年 – 1990年 - 「日々の贅沢楽しまなくっちゃね」「女房酔わせてどうするつもり?」
- ウッチャンナンチャン(ニッカコネクションラム&ライ) 1990年
- 水谷あつし(オールモルト) 1991年
- 田中美佐子(オールモルト) 1992年 - 「夜更かしはいくつになってもワクワクするわね」
- 外国人男優二名 (スーパーニッカ) 1992年 - BGM:ダンディズム (谷村新司)
- 石黒賢(ギルビージン・トニック) 1993年 - BGM:Finish!!(アン・ルイス)
- 櫻井淳子(ギルビージン・トニック) 1993年 - 同上
- 細川直美(スーパーニッカやわらかブレンド) 1995年
- 泉谷しげる(ニッカウヰスキーAT) 1996年
- りょう(ニッカウヰスキーAT) 1996年
- 稲垣吾郎(ニッカシードル) 1997年 - BGM:? (新居昭乃)
- 製品のみ (オールモルト) 1997年 - BGM:? (服部隆之)
- チャンバワンバ (スーパーニッカ) 1998年 - BGM:タブサンピング(チャンバワンバ)
- Chocolat・片寄明人(ニッカシードル) 1998年
- 製品のみ(ブラックニッカ) 1999年 - BGM:熊蜂の飛行(樋口康雄)
- タイム・ファイブ (ブラックニッカクリアブレンド) 2001年 - BGM:夢で逢いましょう(タイム・ファイブ)
- デニス・ガン (ニッカブランド) 2002年 – 2003年 - BGM:悲愴(デニス・ガンほか)
- W・P・ローリー卿(ブラックニッカクリアブレンド) 2002年 - BGM:夢で逢いましょう(りりィ)
- 石川セリ (ブラックニッカクリアブレンド) 2003年 - BGM:夢で逢いましょう(石川セリ)
- デニス・ガン (竹鶴17年ピュアモルト) 2004年 - BGM:悲愴(デニス・ガンほか)
- ハナレグミ (ブラックニッカクリアブレンド)2004年 - BGM:夢で逢いましょう(ハナレグミ)
- 村上ゆき (ブラックニッカクリアブレンド) 2005年 - BGM:夢で逢いましょう(村上ゆき)
- 石田ゆり子(オールモルト) 2006年 - BGM:木蘭の涙(スターダストレビュー)/演出:宇恵和昭/「女房酔わせてどうするつもり?」
- 佐藤竹善 (シングルモルト余市) 2007年 - BGM:Amazing Grace
- 松尾貴史(ブラックニッカ クリアブレンド) 2007年 – 2010年 - BGM:明日はどうだ(奥田民生)
- 久保田利伸(ブラックニッカ クリアブレンド) 2009年 – 2010年 - BGM:Soul Mate 〜君がいるから〜(久保田利伸)
- 吾妻豊(スーパーニッカ) 2009年 - BGM:Swingin' Time(鈴木雅之)
- 白田久子(スーパーニッカ) 2009年 - 同上
- 大泉洋(ブラックニッカ クリアブレンド/ ブラックニッカ クリア) 2010年5月 – 2012年12月
- 権藤朱実(ブラックニッカ クリア) 2012年 「やっぱりのっちゃう」篇/大泉洋と共演
- 伊勢谷友介(ブラックニッカ リッチブレンド) 2013年3月 – 2014年1月
- 香取慎吾(ニッカ ハイボール) 2015年4月 – 12月
- 玉山鉄二(ブラックニッカ ディープブレンド / ブラックニッカ クリア / ブラックニッカ クリアハイボール缶 / ブラックニッカ リッチブレンド /ザ・ニッカ12年) 2015年6月 – 2018年1月
- 大泉洋(ブラックニッカ クリア) 2011年8月 – 12月、(ブラックニッカ ハイボール香る夜) 2018年4月 – 2019年 ※北海道限定放映
- ルパン三世(ブラックニッカ クリア) 2020年4月1日 – 5月31日 ※WebCM限定
他、昭和30年代前半までの「丸びんニッキー」CMでは、熊の人形を使ったCMが放送されていた。
提供番組[編集]
- ニッカハローハロークイズ (ニッポン放送) - 1954年7月 – ?
- 題名のない放送 (新日本放送・現MBSラジオ) - 1955年 – ?
- クイズつきスリラードラマ"犯人は誰だ" (文化放送) - 1956年 – ?
- ヒッチコック劇場 - 日本テレビ時代は第2期初期まで一社提供 (1957年 – 1962年)。テレビ東京時代は筆頭スポンサー (1985年 – 1987年)。
- ニッカ木曜ワイドアワー (日本テレビ、一社提供) - 1959年4月 – 1960年9月
- 天覧試合 (巨人×阪神)(日本テレビ、一社提供) - 1959年6月25日。
- ダイヤモンドグローブスペシャル (フジテレビ、二社または複数社提供) - 1960年10月 – ?
- ダイヤル110番 (日本テレビ・よみうりテレビ、二社提供) - 1962年10月7日 – 1963年10月6日
- お茶の間寄席 (第1期)(フジテレビ) - 1969年4月 – 1969年9月 (19:45分枠時代)
- 3000万円クイズ (フジテレビ) - 1969年10月1日 – 1970年3月28日
- サンデーデラックスショー (日本テレビ、二社提供) - 1970年4月26日 – 1970年5月31日
- ゴールデン洋画劇場 (フジテレビ、筆頭協賛)
- SFドラマ 猿の軍団(TBS、複数社提供) - 1974年10月6日 – 1975年3月30日
- ハロー!スポーツ (日本テレビ、三社提供) - 1975年4月5日 – 1975年9月27日
- ニッカ・ゴルフアワー小松原三夫のゴルフ道場 (テレビ東京、一社提供) - 1975年10月5日 – 1989年9月24日
- オーソン・ウェルズ劇場 (朝日放送、筆頭協賛) - 1977年1月 – 1977年6月。オーソン・ウェルズ出演のCMが放送されていた。
- 沢田研二ショー (TBSテレビ、一社提供) - 1983年4月3日 – 1983年9月25日
- 天才・たけしの元気が出るテレビ!! (日本テレビ、複数社提供) - 1985年4月14日放送開始から1989年頃まで
- ニュースステーション (テレビ朝日、複数社提供)
- スーパーToday (HBCラジオ) - 1992年 – 1994年
- スペースJ (TBSテレビ、複数社提供) - 1993年10月13日 – 1996年9月11日
- ニッカラジオBAR竹鶴 (CBCラジオ、一社提供) - 2003年4月7日 – 2004年3月29日?
- 〜日本のウイスキーの父〜 ラジオバー竹鶴 (南海放送ラジオ、一社提供(アサヒビール)) - 2015年2月7日 – 2015年2月28日/プレゼンター:藤田晴彦
ニッカとりんご[編集]
ニッカウヰスキーによれば、1935年発売の「日果林檎ジュース」は製品化された日本初の果汁100%リンゴジュースである。1970年代にも「ニッカアップルジュース」として発売されたが、2015年現在果汁100%ジュースの製造販売は行っておらず、余市蒸溜所内にあるニッカ会館の試飲会場で用意されるリンゴジュースはJAよいちが製造する「りんごのほっぺ」である。戦前の一時期生産されていたアップルゼリーやアップルソース、リンゴジャムなどを除くリンゴ関連製品は前述の弘前工場に段階的に引き継がれ、青森県産リンゴを使用したアップルワイン、アップルブランデー、シードル[出典無効]、りんごポリフェノールが製造されている。また2014年12月にはリンゴ果汁0.1%を使用した「リタハイボール」が期間限定で発売、2015年10月には「ニッカハイボール期間限定余市りんご」が発売される。なお、同系列メーカーのアサヒ飲料による「バヤリースアップル」(果汁10%) はチリ産、中国産、南アフリカ産のリンゴを、「バヤリース プレミアムセレクションふじりんご100」(果汁100%) はアメリカ産を使用している。
所在地[編集]
本社[編集]
- 東京都港区南青山5-4-31 (北緯35度39分42.5秒 東経139度42分50秒。骨董通り沿い)
本社ビルの地下1階にはかつては直営バーとして、現在は外部委託された「ブレンダーズバー」があり、ニッカのブレンダーの手によるオリジナルブレンドウイスキーや、ブレンド前のキーモルト、シングルカスクウイスキーなどが常時提供されているほか、テイスティングイベントも多く開催されていたが、2021年12月をもって閉店した。
2022年8月1日付で本社をアサヒグループホールディングスと同じ東京都墨田区吾妻橋へ移転した他、登記上の本店所在地も同年9月1日付で北海道余市町へ移転した。
工場[編集]
日本[編集]
日本国内の工場は下記の8つだが、北海道工場と仙台工場はそれぞれ余市蒸溜所 (石炭を燃料とする直火焚きポットスチルを設置)、宮城峡蒸溜所 (ポットスチルは蒸気による加熱、また日本唯一、世界でも数少ないカフェ式連続式蒸溜機を設置) を併設しており、ニッカウヰスキーの中では重要な役割を持つ工場となっている。さらに仙台工場は、作並温泉地区において重要な観光スポットの1つであるため、住所が同社社名に因んで「ニッカ」と名付けられ、また、国道48号から同工場に至る途上の広瀬川に架かる橋も「ニッカ橋」と命名されている。工場は広瀬川と新川川に挟まれているが、新川川 (新川) がニッカワである偶然については「歴史」の項目も参照されたい。
この他、ニッカブランデー (ぶどう系、旧"黒"シリーズ) の原酒の一部はサントネージュワインの工場で生産される。
- 弘前工場:青森県弘前市大字栄町2-1-1 (北緯40度36分57.5秒 東経140度27分53秒)
- 栃木工場:栃木県さくら市大字早乙女1765 (北緯36度42分15.7秒 東経140度0分45.9秒)
- 柏工場:千葉県柏市増尾字松山967 (北緯35度50分3.5秒 東経139度59分21.7秒)
- 西宮工場:兵庫県西宮市津門飯田町2-118 (北緯34度44分16.1秒 東経135度21分42.8秒。2024年3月に操業終了 (予定))
- 門司工場:福岡県北九州市門司区大里元町2-1 (北緯33度55分9.2秒 東経130度56分16.3秒。旧協和発酵→アサヒ協和酒類製造門司工場)。前身の鈴木商店記念館 (webサイト) に協賛。
- さつま司蒸溜蔵:鹿児島県姶良市加治木町諏訪町200 (北緯31度44分21.48秒 東経130度40分6.54秒)
閉鎖[編集]
- 東京工場:東京都港区 (1952年11月 – 1974年2月) - 1967年6月、麻布工場に名称変更。
- 九州工場:佐賀県鳥栖市 (1965年5月 – 1989年6月) - 大分県日田市へ移転。
- 九州工場:大分県日田市 (1989年6月 – 1999年3月) - 合理化等で廃止。設置されていた単式蒸溜器は天領日田洋酒博物館にて展示されている[出典無効][出典無効]。跡地は焼酎メーカー大手・三和酒類 (いいちこ) の日田蒸留所として使われている。
- 徳島工場:徳島県鳴門市 (2001年4月 – 2003年8月) - 明治創業のみりん製造蔵元である畑酒類株式会社 (現:畑商店) と1989年より協業で大麦焼酎「一番札」「鳴門っ子」「高印」の製造および瓶詰めを行っていた。2001年に自社工場としたが、製造能力の頭打ちから2003年に柏工場へ移管し閉鎖。
- 琉球ニッカウヰスキー株式会社:沖縄県那覇市 (1962年11月 – 1998年12月) - アメリカ統治下の販売対策として設立しボトリングおよび営業を行っていたが、アサヒビール株式会社へ譲渡。(現沖縄アサヒ販売株式会社)
ニッカが引き継ぐ前の旭化成は静岡県田方郡大仁町に自社工場を持っていた 。
イギリス[編集]
- ベン・ネヴィス蒸溜所:スコットランド・インヴァネスシャイア・フォート・ウィリアム (北緯56度50分5.3秒 西経5度4分25.5秒) - ベン・ネヴィス山 (スコットランド・ゲール語:Beinn Nibheis) はブリテン諸島の最高峰で、ハイランド南西部にある。標高は1,344 m。当蒸溜所はネヴィス山の北西麓のフォート・ウィリアムにあり、1989年にニッカウヰスキーが取得した。