ニコライ・メルクーロフ
ニコライ・アレクサンドロヴィチ・メルクーロフ(ロシア語:Николай Александрович Меркулов、1903年2月6日 - 1919年10月23日)は、ロシア帝国、白軍の軍人[1][2]。最終階級は准尉。
生涯[編集]
ロシア帝国Lua エラー package.lua 内、80 行目: module 'モジュール:仮リンク/link' not foundのガゼンポト市で生まれた。産まれて間も無く家族に連れられてツァールスコエ・セローに引っ越し、1913年から1916年までツァールスコエ・セローのニコラエフ・ギムナジウムで学ぶ[3]。
同年、海軍士官候補生隊に入り、セヴァストポリに転勤した。2月革命後はペトログラードに転属となり、第6中隊の士官候補生として海軍学校に入学。
十月革命が勃発した時、ペトログラードはボリシェヴィキによって占領されたため、学校が解散させられた。その際ボリシェヴィキの残虐行為を目撃した為反共主義者になった。
1919年、16歳で密かにユデーニチ将軍指揮下の北西軍に入隊。他の多くの海軍将校とともに装甲列車「アレクサンドル・コルチャーク」にて出向した。この時列車の上には聖アンドリューの旗が掲げてあった[4]。
ヤンブルクの戦いの際、赤軍による重機関銃の砲火にさらされていた橋を最初に攻撃した兵士となった。他の兵士もメルクーロフを追ってこれに続いた。これにより赤軍兵士に恐れて逃げさせるという戦果を上げ、准尉の階級を得た。
同年10月23日、ツァールスコエ・セローの戦いを指揮していた際、アレクサンドロフスカヤ駅の近くで流れ弾が直撃し戦死。この時一緒に居たレフ・カムチャトフ上級中尉の回顧録によると、最後の言葉は「神よ、ボリシェヴィキを倒してください!」 (Дай вам Бог победить Большевиков!) である。
脚注[編集]
- ↑ “ボリシェヴィキを打ち負かしてください!”. 2020年4月26日閲覧。
- ↑ “Меркулов Николай Александрович — Russian Estonia”. russianestonia.eu. 2023年1月8日閲覧。[信頼性要検証]
- ↑ “УЧЕНИК ЦАРСКОСЕЛЬСКОЙ НИКОЛАЕВСКОЙ ГИМНАЗИИ 1913-1916 гг.”. kfinkelshteyn.narod.ru. 2023年2月26日閲覧。
- ↑ aselajn (1:44 PM). “Oct. 23rd, 2016”. aselajn. 2023年2月26日閲覧。
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