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スエズ運河

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スエズ運河(スエズうんが、قناة السويس qanāt as-suwēs)は、地中海と紅海をスエズ地峡で結び、アフリカとアジアを分断するエジプトの人工海面水路である。1859年から1869年にかけてスエズ運河会社によって建設され、1869年11月17日に正式に開通した。スエズ運河は、地中海と紅海を経由して北大西洋と北インド洋を結ぶ水路で、アフリカ大陸を回らずにヨーロッパとアジアを海運で連結することができる。例えばアラビア海からロンドンまでの航行距離を約8,900km短縮する。2012年には、17,225隻(1日平均47隻)の船舶が運河を通過した。運河は北端のポートサイドと南端のスエズ市タウフィーク港を結び、中間点より北に3キロメートルの運河西岸にはイスマイリアがある。

建設当初のスエズ運河は全長164キロメートル (102 mi)、深さ8メートル (26 ft)だったが、その後何度かの拡張工事を受け、現在では全長193.30キロメートル (120.11 mi)、深さ24メートル (79 ft)、幅205メートル (673 ft)となった。

スエズ運河は南北どちらかの一方通行で運営され、船のすれ違いはバッラ・バイパス(Ballah By-Pass)やグレートビター湖など4か所で可能である。運河には閘門が無いため海水は自由に流れ、主に夏にはグレートビター湖から北へ、冬は南へ水流が生じる。潮目の変化は湖の南で起こる。

運河はエジプト政府の所有物であるが、1956年7月に大統領ガマール・アブドゥル=ナーセルが運河を国有化するまでは、フランスやイギリスを中心としたヨーロッパの株主が運河を運営するコンセッション会社を所有しており、このことが1956年10月から11月にかけてのスエズ危機の原因となった。スエズ運河は、エジプトの国営スエズ運河庁(SCA)によって運営・維持されている。スエズ運河の自由航行に関する条約では、「戦時においても平時においても、通商または戦時のすべての船舶が旗の区別なく使用することができる」とされている。とはいえ、運河は海軍のショートカットやチョークポイントとして、軍事戦略上重要な役割を果たしてきた。地中海と紅海の両方に海岸線と基地を持つ海軍(エジプトとイスラエル)は、特にスエズ運河に関心を持っている。

2014年8月、エジプト政府は、スエズ運河の通過時間を短縮するために、バラ・バイパスを35km拡張・拡幅する工事に着手した。この拡張工事は、スエズ運河の容量を一日あたり49隻から97隻へと約2倍にすることを目的としている。費用は594億エジプトポンド(90億ドル)で、エジプトの企業や個人に限定して発行された有利子の投資証明書で賄われた。新スエズ運河と名付けられたこの拡張工事は、2015年8月6日の式典で華々しく開通した。

2016年2月24日、スエズ運河庁は新しい側水路を正式に開通させた。この側水路は、スエズ運河の東延長部の北側に位置し、イースト・ターミナルに船舶を接岸・離岸させるためのものである。イースト・コンテナ・ターミナルはスエズ運河上に位置しているため、新航路が開通するまでは、護衛艦の走行中にターミナルへの接岸・離岸を行うことはできなかった。

通行基準[編集]

運河は、喫水20メートル (66 ft)以下または載貨重量トン数240,000トン以下かつ水面からの高さが68メートル (223 ft)以下、最大幅77.5メートル (254 ft)以下の船が航行できる。これを上限とする基準をスエズマックスという。この基準では、超大型のタンカーは航行できない。載貨重量数が超過するような場合は、荷物の一部を運河が所有する船に一時的に分載して、通過後に再度載せ直すことも行われる。

利便性[編集]

1869年に運河が開通するまで、トーマス・フレッチャー・ワグホーンの陸送郵便やロバート・スチーブンソンの鉄道路など、地中海と紅海の間は船から荷降ろしされ陸上を運搬する方法がしばしば用いられていた。

スエズ運河を通過しない場合、アフリカ大陸南端のアガラス岬を回航しなければならない。現在でもこの航路を取る必要がある超スエズマックスの船は、ケープサイズと呼ばれる。ロンドン - 横浜間を例に取ると、アフリカ回航では14,500海里 (26,900 km)かかるところを、スエズ運河を通れば距離は11,000海里 (20,000 km)となり、24%の短縮となる。ただし、21世紀初頭にはソマリア沖の海賊や高い保険料を避けるために、この航路を取る船が増えた。

運用[編集]

スエズ運河を挟む地中海と紅海には海面の高度差がほとんど無く、運河中に閘門は設置されていない。運河を通行できる航路は1レーンのみ設定されており、船がすれ違う場所は、エル=カンタラ(英語版)近郊のバッラ・バイパスやグレートビター湖など5カ所に限定される。

そこで通常は、10-15隻程度の船団3つを組んで航行することになる。ある一日を例に挙げれば、北から1船団が早朝に進入し、グレートビター湖に停泊すると南から上る船団を待ち、ここですれ違う。この南からの船団はバッラ・バイパスまで進むとここに留まり、北から来る2番目の船団とすれ違う。

運河を通過するには、8ノット (15 km/h)の速度で、11時間から16時間かかる。このような低速航行をすることで、運河の岸が波で浸食されることを防いでいる。スエズ運河は年中無休で運用されている。

1960年代から運河は全面的な改修が行われた。第1期工事は1961年に始まったがスエズ動乱で長く中断し、1975年に再開され、1980年に13億ドルをかけた拡張計画が終了した。これによって航路幅は89メートルから160メートルに、水深は14.5メートルから19.5メートルとなり、通過できる船舶の規模も拡大した。

1995年までに、ヨーロッパで消費された石油の3分の2はスエズ運河を経由して運ばれた。世界の近海航路を利用する船舶では7.5%がスエズ運河を利用し、2008年の統計では21,415隻が通過し、総計53億8100万ドルの使用料が納められた。1隻あたり平均料金は25万1千ドルである。スエズ運河は通行できる船舶の大きさ、総通行量ともにパナマ運河を上回る。

スエズ運河庁(SCA)理事会は、2008年1月1日付けで船舶やタンカーの運河通行に関する規則を改訂した。その最も重要な点は、62フィート船舶の通行許可と、船舶最大幅を32メートル (105 ft)から40メートル (130 ft)まで拡大したこと、運河の境界内でダイバーを活用する際、事前にSCAの許可を得なければ罰金が科せられるようになったことがある。また、放射性物質や可燃物などの危険物を積載した船舶についても、国際協定で定める最新の規定に適合していれば通行が認められた。

またSCAは、軍艦の通過時に使われるタグボートの隻数を取り決める権限を持ち、航行時の高い安全性を確保している。

経済的インパクト[編集]

経済的には、スエズ運河が完成したことで主に地中海沿岸諸国の海上貿易国に恩恵がもたらされた。地中海沿岸の国々は、イギリスやドイツなどの北欧や西欧の海の交易国よりも、はるかに速いスピードで近東や極東とつながっていた。ハプスブルク家の主要貿易港であるトリエステは、中欧と直結していたこともあり、この時期に急成長を遂げた。

19世紀の蒸気船によるボンベイへの旅を想定した場合、スエズ運河を利用することでブリンディジ、トリエステからは37日、ジェノヴァからは32日、マルセイユからは31日、ボルドー、リヴァプール、ロンドン、アムステルダム、ハンブルグからは24日の短縮になったという。当時は、輸送する商品が高価な運河の関税に耐えられるかどうかも検討する必要があった。そのため、中欧や東欧への陸路を持つ地中海の港が急速に発展していったのである。今日の船会社の情報によると、シンガポールからロッテルダムまでスエズ運河を経由するルートは、アフリカを回るルートに比べて6000キロ、9日間短縮されるという。その結果、アジアとヨーロッパを結ぶ定期船は、このルート短縮により44%のCO2(二酸化炭素)を削減することができる。スエズ運河は、東アフリカと地中海地域を結ぶ重要な役割を担っている。

20世紀には、2つの世界大戦とスエズ運河危機のために、スエズ運河を介した貿易は何度も中断された。また、多くの貿易の流れは、地中海の港からハンブルグやロッテルダムなどの北欧のターミナルへと移っていった。冷戦の終結、欧州の経済統合の進展、CO2排出量の考慮、中国のシルクロード構想などを経て、ピレウスやトリエステなどの地中海沿岸の港が再び成長と投資の焦点となっている。

運河を横断する構造物[編集]

  • スエズ運河橋またはエジプト-日本友好橋は、エル=カンタラ(アラビア語で「橋」の意味)に渡された、桁下70メートルの高架橋である。これは日本国政府が出資し、鹿島建設、日本鋼管、新日本製鐵によるコンソーシアムが建設を請け負った。
  • エル・フェルダン鉄道橋は、2001年に完成したイスマイリアの北20キロメートルを通る世界最長の旋回橋であり、その旋回部分は340メートルの長さを持つ。ここには以前から橋があったが、1967年に第三次中東戦争で破壊された。
  • スエズ市から北57キロメートルのところには、シナイ半島へ真水を送るパイプラインが運河の地下を通っている。北緯30度27.3分 東経32度21.0分.
  • アハメド・ハムディ・トンネルは、グレートビター湖の南を通る。これは1983年に建設されたが漏水問題が生じ、1992年から1995年にかけて既設隧道の中に防水トンネルを新たに設置し、改めて通行可能となった。
  • スエズ市近郊には、1999年に敷設された送電線が渡されている。

環境への影響[編集]

スエズ運河建設に伴って、ナイル川デルタからワジ・トゥミラットを経由しスエズ南部やポートサイド北部まで通じていた淡水の運河は分断された。これらの淡水運河は1863年には完成され、乾燥地帯に淡水を運ぶ機能を担っていた。この淡水は当初は運河建設に、後には運河沿いの農業や生活用水に利用されていた。

紅海は地中海東岸よりも約1.2メートル (3.9 ft)高いが、グレートビター湖において海水は冬に北へ、夏に南へ流れる。干満は湖の南岸で生じるが、その高さはスエズ市沿岸部とは異なっている。このグレートビター湖はかつて過塩性湖であり、1869年の運河開通後数十年間はその高い塩分ゆえに紅海と地中海の間で生物の移動を防いでいた。しかし長い時間を経て水が入れ替わり、湖の塩分が低下すると、紅海の動植物が地中海東部に進出して生育域を作り出した。紅海は一般に大西洋よりも塩分が高く栄養に乏しい。そのため紅海種の生物は、地中海の中でも高塩分・貧養分の東側領域では大西洋種よりもその環境に馴染み進出したが、逆に地中海側の生物が紅海で繁殖することはほとんど無い。この移住現象は「レセップス移動(英語版)」と呼ばれる。

このような地中海東部の生態系への影響は、1968年のアスワン・ハイ・ダム運用開始なども関わった。ナイル川全体の様々な開発も伴い、ナイルデルタや地中海へ流れ込む淡水の総量は減少し、栄養分が豊富なシルト類が行き渡らなくなった。これによって海域の塩分希釈が少なくなり、自然に起こる濁度も低下し、地中海東部の環境をより紅海に近い状態にした。

運河の建設によって侵入した紅海種は移入種として、地中海の生態系の中で無視できない数まで繁殖し、環境に深刻な影響を与えている。地中海の地域種や固有種には圧迫され衰退が懸念されるものも多く存在する。既に約300種以上の紅海からの移入種は確認され、潜在的にはそれ以上の数が既に地中海に移動していると考えられる。エジプト政府は運河の拡充を志向しており、生物海洋学者らはこのことが紅海種侵入のさらなる拡大に繋がるのではと懸念している。



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