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ジョージア州

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ジョージア州(ジョージアしゅう、英: State of Georgia )は、アメリカ合衆国の南東部にある州。州都はアトランタ市。なお、同市は人口では州内で最大の都市でもある。1776年にアメリカ独立宣言をした13州の1つであり、コカ・コーラやCNN、アフラックの本社などがあることでも知られている。

ジョージア植民地として1732年に設立されており、13植民地の中では最後のものだった。アメリカ合衆国憲法を1788年1月2日に批准しており、合衆国への加盟順位としては4番目になった。1861年1月21日にアメリカ合衆国からの脱退を宣言し、アメリカ連合国建国7州の1つになった。1870年7月15日にアメリカ合衆国に復帰したが、これは最後の州となった。

アメリカ合衆国50州の中では陸地面積では第24位、人口では第8位である。2007年から2008年の人口増加率では州内14郡が国内100傑に入っており、テキサス州に次いで多い数だった。「モモの州」や「南部の帝国州」と呼ばれる。

ジョージア州の南はフロリダ州、東は大西洋とサウスカロライナ州、北はノースカロライナ州とテネシー州、西はアラバマ州に接している。北部にはアパラチア山脈に属するブルーリッジ山脈がある。中央部のピードモント台地は丘陵部から滝線まで広がっており、滝線から川が流れ落ちて南部の大陸性海岸平原に流れ込んでいる。ミシシッピ川より東では最も陸地面積が広い州だが、水域を含む総面積では第4位である(ミシガン州、フロリダ州、ウィスコンシン州に次ぐ)。

家庭で話される言語(ジョージア州) 2010
英語 87.35%
スペイン語 7.42%
人種構成(ジョージア州) 2010
白人 55.9%
黒人 30.5%
ヒスパニック 8.8%
アジア系 3.2%
インディアン 0.3%
混血 2.1%

州名の由来[編集]

ジョージア植民地の設立勅許をジェームス・オグルソープに与えたイギリス国王ジョージ2世に由来する。南コーカサスにあり(ロシア語名の「グルジア」としても知られる)ジョージア国とは地名の由来(ジョージアの国名を参照)はもとより歴史的にも何の関係も持たないが、英語名はどちらも"Georgia"のため区別が必要な場合は州の方を"State of Georgia"(ジョージア)、国家の方を"Country of Georgia"(ジョージア)と呼び分ける慣例がある。また、ビートルズの楽曲「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」では、地理的には無関係にもかかわらず、英語では同一名称となる2つの地名に引っ掛けたジョークが歌詞に織り込まれていることで知られる。

州都のアトランタとジョージア国の首都であるトビリシは、1988年に姉妹都市関係を締結している。また、1996年に開催された1996年アトランタオリンピックではジョージア国選手団が開会式の入場行進において特に大きな歓声で迎えられたエピソードがよく知られている。

歴史[編集]

ヨーロッパ人が発見し、入ってくる以前のジョージアは、マウンドを建設する文化を持つ先住民が住んでいた。イギリスが植民する以前はチェロキー族やクリーク族などの農耕民インディアン部族が居住していた。18世紀前半、サウスカロライナのイギリス人とフロリダのスペイン人がにらみ合うなかで、ジェームス・オグルソープが率いた最初の英国移民団が1733年2月12日(旧暦1732年2月1日)にサバンナに到着した。州ではこの日を「ジョージアの日」と名付けて州の祝日としている。この植民地は当時のイギリス国王ジョージ2世が発行した勅許の下に、「アメリカにおけるジョージア植民地設立のための信託」が管理した。この信託はオグルソープ計画と呼ばれた念入りな入植計画を実行し、自作農の農業社会を目指し、奴隷制度を禁じていた。1742年、ジェンキンスの耳の戦争の時に、スペインの侵略を受けた。1752年、植民地を支援していた助成金の更新に植民地政府が失敗した後、信託は支配権をイギリス王室に戻した。ジョージアは王室領となり、総督は国王から指名された。

ジョージア植民地は1776年にアメリカ独立宣言に署名し、アメリカ独立戦争でイギリス支配に反抗した13植民地の1つとなった。戦後アメリカ合衆国憲法を1788年1月2日に批准し、合衆国への加盟順位としては4番目の州になった。

1829年、北ジョージア山地で金が発見されてジョージア・ゴールドラッシュが起こり、連邦政府はダロネガに貨幣鋳造所を設立して1861年まで運営が続けられた。その後白人開拓者が多く流入し、チェロキー族から土地を取り上げるよう連邦政府に迫った。1830年、アンドリュー・ジャクソン大統領がインディアン移住法に署名して法制化し、東部にいた多くのインディアンを現在のオクラホマ州にあった居留地に移住させた。これにはジョージアにいた全ての部族が含まれていた。「ウースター対ジョージア州事件」でアメリカ合衆国最高裁判所が、インディアンの領域を調整してはならないと裁定していたにも拘わらず、ジャクソン大統領とジョージア州はこの裁定を無視した。1838年、ジャクソンの後継者マーティン・ヴァン・ビューレン大統領が連邦軍を派遣してチェロキー族を集め、ミシシッピ川の西に移動させた。これは「涙の道」と呼ばれ、途中で4,000人以上のチェロキー族が死んだ。

1861年に始まった南北戦争ではアメリカ連合国に加盟し、主要な戦場になった。1864年、チカマウガ、ケネソーマウンテン、アトランタと大きな戦闘が続き、アトランタ市は北軍のウィリアム・シャーマン将軍の侵攻によって破壊された。それに続くサバンナまでの「海への進軍」によってジョージア州主要部全域が壊滅し甚大な被害を受けた。この戦争でジョージア州の兵士18,253人が死亡しており、5人に1人の割合になった。この間のことはマーガレット・ミッチェルの有名な小説「風と共に去りぬ」に詳しく描かれている。レコンストラクション時代に続く1870年に連邦に復帰した。

領域[編集]

ジョージア州の北部はアパラチア山系のブルーリッジ山脈で占められ、南部は大平原となっている。

ジョージア州は北でノースカロライナ州とテネシー州、西でアラバマ州、南でフロリダ州に接し、東の大部分はサウスカロライナ州に接するが、一部は大西洋に面する。サバンナには代表的な海港がある。

東のサウスカロライナ州との州境は大西洋に始まり、サバンナ川を北西に遡り、トゥガルー川やセネカ川と合流する。その後はトゥガルー川を遡り、チャトーガ川に入る。この州境は1797年のビューフォート条約で取り決められ、さらに1923年と1989年の2回、「ジョージア州対サウスカロライナ州」裁判でアメリカ合衆国最高裁判所の審査を受けた。

州境は北緯35度線のラブン郡先端で鋭く曲がる。ただしこの点から初期測量の不正確さのためにやや南に枝分かれする。この35度線はミシシッピ川までジョージア州とノースカロライナ州を分ける境界だった。その後テネシー州がノースカロライナ州から分離し、1795年にヤズーの仲間がジョージア州議会に提案して成立し、州知事が承認した法によって、現在のアラバマ州とミシシッピ州となっている広大な地域を売却した。

ジョージア州の西側州境はテネシー州チャタヌーガの南西にある点から南南東に直線で下り、ウェストポイント近くでチャタフーチー川の最西端に出遭う。そこからフリント川と合流する点までを辿る(チャタフーチー川とフリント川が合流してフロリダ州のアパラチコラ川となる)。そこからは真東、やや南よりに直線でセントメアリー川の水源に向かい、残りは川を下って大西洋に戻る。

川を利用した州境は当初の川の谷線で設定されている。その後現在セミノール湖の水中となっているアパラチコラ・チャタフーチー・フリントの点など、ダムで造られた湖によって水没している。

ジョージア州議会は、1818年の測量でテネシー州との州境が考えていたよりも1マイル (1.6 km) 南にあると主張し、2010年にその修正を提案した。当時ジョージア州は深刻な干ばつの中にあり、この修正が成立すればテネシー川から水を引くことができるはずだった。



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