グレン・グールド
グレン・グールド(Glenn Gould,[1] 1932年[2]9月25日[3] - 1982年[4]10月4日[5])は、カナダのピアノ奏者。[6]
毛皮職人のラッセル・ハーバート・ゴールド[7]とピアノ教師のフローレンス・エマ・ゴールド[8][9]の一人息子として[10]トロントで生まれる。[11]3歳の頃からピアノを始める。[12]1940年にはトロント音楽院の初級グレード試験を受け、[4]10歳の頃からトロント音楽院で学ぶこととなった。[13]トロント音楽院では、1942年から1949年までフレデリック・ケイトン・シルヴェスター[14]にオルガン、1943年から1952年までアルベルト・ゲレロにピアノを学んだ。[4]音楽院在学中の1944年にはトロントで開催されたキワニス音楽祭のピアノ・コンクールに出場して優勝し、[15]1945年にはイートン・オーディトリアムにてオルガンを弾いて演奏会デビューを果たした。[16]1946年にはオーケストラとの共演も果たしている。[17]1950年にはCBCでリサイタルを開き、[18]1979年までCBCと良好な関係を保った。[19]1953年には父に特製の椅子を作ってもらい、終生その椅子を重用した。[20][21]1964年には公開演奏を止めている。[22]
1982年に誕生日を迎えた翌週の月曜日に脳卒中の発作を起こし、トロント総合病院に搬送された。[23][24]入院後、容体が急速に悪化し、父親により延命措置の停止が決定されたことで、トロント総合病院にて死去。[25]
脚注[編集]
- ↑ 出生時の名前はグレン・ハーバート・ゴールド(Glenn Herbert Gold)である。(“Glenn Gould | The Canadian Encyclopedia”. 2024年12月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月1日閲覧。)
- ↑ 吉澤, ヴィルヘルム『ピアニストガイド』青弓社、2006年、241頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784787272089。
- ↑ ペイザント, ジェフリー『グレン・グールド』木村英二訳、音楽之友社、1981年、15頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276203648。
- ↑ 4.0 4.1 4.2 アーカイブ 2024年10月7日 - ウェイバックマシン
- ↑ Rothstein, Edward (1982年10月5日). “GLENN GOULD, PIANIST, IS DEAD; SAW RECORDINGS AS ART FORM”. The New York Times. オリジナルの2024年12月1日時点におけるアーカイブ。 2024年12月1日閲覧。
- ↑ グレン・グールド - Discogs
- ↑ 1938年までは「ゴールド」(Gold)姓を名乗っていたが、1939年頃から一家は家名について「グールド」(Gould)と綴るようになった。これは、当時のカナダで席巻していた反ユダヤ主義により、一家がユダヤ人と誤認するのを防ぐためでもあった。ただし、この家名の綴りの変更は公式のものではなく、父ラッセルが家名を正式に変えたのは1979年12月5日になってからのことである。(Bazzana, Kevin (2004). Wondrous Strange. Oxford University Press. p. 24. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9780195174403)
- ↑ 母フローレンスの旧姓はグリーグ(Grieg)だった。(Clarkson, Michael (2010). “Flora”. Secret Life of Glenn Gould, The A Genius in Love. ECW Press. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9781554906819)
- ↑ 「エドヴァルド・グリーグは母の祖父の従兄弟だった。」(ペイザント 1981, p. 16)
- ↑ アーカイブ 2020年3月18日 - ウェイバックマシン
- ↑ Predota, Georg (2022年9月25日). “On This Day 25 September: Glenn Gould Was Born”. Interlude. オリジナルの2024年2月29日時点におけるアーカイブ。 2024年2月29日閲覧。
- ↑ 「グールドが三歳になった時、絶対音感とか、なにがしかの読譜力を含め、飛び抜けた音楽の才能の持ち主であることが分かった。グレンの母親はピアノの手ほどきをし、十歳になるまでグールドのただ一人の音楽教師だった。/五歳になると、グールドは作曲家になろうと決心し、家族や友だちのために作曲した小品を演奏した。」(ペイザント 1981, p. 16)
- ↑ 「十歳になって、グールドはトロント・コンサーヴァトリー・オブ・ミュージックでレッスンを受け始めた(ここは後にロイヤル・コンサーヴァトリー・オブ・トロントと改称された。紛らわしいので、今後はそう呼ぶことにする)。アルベルト・グエレロがピアノの先生で、オルガンのレッスンをフレデリック・シルヴェスターから受け、理論をレオ・スミスに学んだ。」(ペイザント 1981, p. 19)
- ↑ “Frederick Silvester | The Canadian Encyclopedia”. 2024年12月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月1日閲覧。
- ↑ 「毎年行われるキワニス音楽祭(これについては後述する)は最初、一九四四年二月トロントで開かれた。グールドはコンクールに参加した。二月十五日『ピアノ・トロフィー・コンペティション』」で優勝したが、これは各種ピアノ・クラスの優勝者同士で決戦をやったものらしい。」(ペイザント 1981, p. 21)
- ↑ (ペイザント, ジェフリー『グレン・グールド、音楽、精神』宮澤淳一訳、音楽之友社、2007年、285頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276203754。)
- ↑ 「グールドがソロイストとして、オーケストラと初めて公開の場で共演したのは、一九四六年五月八日、トロントのマッシー・ホールでのロイヤル・コンセルヴァトリーコンサートであった。」(ペイザント 1981, p. 29)
- ↑ 「一九五〇年十二月二十四日の日曜日、東部標準時御前十時三十分、グールドはカナダ放送協会(CBC)のラジオ・ネットワークで初リサイタルを行なう。『CBCタイムズ』誌にはこう告知がされた―/グレン・グールド。十八歳のトロントのピアニスト。モーツァルトのソナタ変ロ長調(K二八一)、ヒンデミットのソナタ第三番(一九三六年)。/この出演はマイクロフォンや放送・録音設備全体との幸福な関係の始まりを記念するものとなった。グールドはそう述べている。以来、彼は自宅にいるような感覚でスタジオで過ごせるようになったのである。」(ペイザント 2007, pp. 42-43)
- ↑ 「彼の最後の(そして最も日対位法的な)『対位法的ラジオ・ドキュメンタリー』は一九七九年四月に放送された。『リヒャルト・シュトラウス―ブルジョワの英雄』で、この作曲家について長らく待たれていた研究成果であった。こういう作品の制作はもうやめる、興味を失ったから。そんな言葉を私はグールド本人から聞いた。この心境の変化と関係があるのかもしれないが、その後ほどなく、彼は、主演テレビ番組を未完のまま一つ二つ残して、CBCの仕事をやめてしまった。あれだけの長期にわたる、しかも生産的な関係が終わったことは残念でならない。」(ペイザント 2007, p. 281)
- ↑ “On Gould’s Signature Chair – Glenn Gould Foundation”. 2024年12月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月21日閲覧。
- ↑ コロンビア・レコードと契約して最初の録音となるヨハン・ゼバスティアン・バッハのゴルトベルク変奏曲のセッションの様子について、ペイザントに従って、レコード会社の宣伝資料によれば、次の通り。「コロンビア・マスターワークスのディレクターやエンジニアたちは、アーティストたちがスタジオ内でいかなる儀式やうぬぼれや気まぐれを発揮しても、それを至極当然のこととして受け入れる思いやりをもった老練家たちだった。だがその彼らといえども、若きカナダのピアニスト、グレン・グールドがその『録音七つ道具』を携えてやって来たときには驚かされた。グールド氏は、最も得意とする曲のひとつを一週間かけて録音する計画だった。バッハの《ゴルトベルク変奏曲》である。/それは六月のうららかな日だったが、グールドはコート、ベレー帽、マフラーに手袋といういでたちで現われた。持参の『七つ道具』はよくある楽譜入れに始まり、タオルの束、ミネラルウォーターの大瓶二本、錠剤の入った小瓶五本(錠剤は全て色も処方も異なる)、そして彼船用の特別なピアノ用の椅子であった。/タオルが大量に必要な理由はあとで明らかになった。グレンは鍵盤の前に座る前に二十分にわたり手先から肘までを湯に浸すのである。この手続きは、皆が楽しく囲む儀式となった。誰もがまわりに腰掛け、談笑し、冗談を言い、音楽や文学などを論じながら『浸し』の儀式が終わるのを待ったのである。/瓶入りのミネラルウォーターが必需品だったのはグレンがニューヨークの水道水に堪えられなかったからだ。錠剤には実に様々な目的があった。―頭痛を抑えるため、緊張を緩和するため、そして血液の循環を良好に保つためである。空調係は、録音スタジオの調性卓を操作する人物に負けず劣らず懸命に働いた。グレンは微妙な温度変化に非常に敏感であったので、スタジオの巨大な空調設備は一定に調整されたのである。/しかし折りたたみ椅子こそまさに、ループ・ゴルトベルク的変奏の際たるものだった。基本的にはブリッジ・チェアだが、グレンが前後左右に体を傾けて座れる目的で、四本の足が別個に高さを調整できるようになっていた。スタジオのスタッフはみな懐疑的で、愚の骨頂だと思っていたが、それも録音が始まるまでだった。彼らが見守る中、グレンは椅子の傾斜を調節し、両手の交差する少々信じがたいパッセージを、『交差』の方向に体を傾けながら弾いたのである。この椅子は、輝かしい、論理的な装置だ。全員一致でそう認めるところとなった。鍵盤に向かうグールドの様子も、圧倒的であった。ときには弾きながら歌い、ときには鍵盤に触れそうな一にまで顔を低め、またあるときには目を閉じたまま頭を勢いよく反らせた。調整室の聴衆は忘我の境地に引き込まれた。空調係ですらバッハを好きになり始めたのである。録音を聴き直しているあいだもグレンは休まず体を動かし続け、ものに憑かれたように指揮をする。そして音楽に合わせて踊るさまは、まさにバレエそのものだった。栄養補給となると、彼はアロールート・ビスケットをほおばり、スキムミルクを飲み、録音スタッフの食べるヒーロー・サンドイッチを見て顔をしかめていた。」(ペイザント 2007, pp. 48-49)
- ↑ 「トロント大学は一九六四年、グールドに名誉博士号を与えた。音楽家が名誉学位を受け取るときは儀式の一部として短い演奏をするのがその大学の伝統である。だから演奏こそが第一にグールドに期待されたのだが、グールドはそれをしないで、大学の評議会で演説した。グールドの人生におけるおしゃべりと演奏の比率は、その頃には、おしゃべりのほうに大分傾いていた。評議会でグールドの話を聞いた人の誰でもが、グールドの話を聞いた人の誰でもが、グールドのピアニストとしての最後の公開演奏が、それに先立つ三ヵ月前に済んでいたことを知ることは出来なかったろう。それは一九六四年三月二十八日、シカゴのオーケストラ・ホールでのリサイタルで、演奏曲目はバッハの『フーガの技法』からいくつかのフーガ、同じ作曲家のパルティータ第四番ニ長調、ベートーヴェンのソナタ作品一一〇、クシェネックの第三ソナタだった。」(ペイザント 1981, p. 50)
- ↑ “GLENN GOULD SUFFERS A STROKE”. The New York Times. (1982年10月2日). オリジナルの2024年12月21日時点におけるアーカイブ。 2024年12月21日閲覧。
- ↑ 「私の知る限り、この最晩年のグールドはほとんど執筆をしなかったが、たくさんのインタビュー活字になった。その二、三年前には予想できなかった数であり、またそれまで以上に誠実なインタビューである。『あなたの本が私を変えた。』グールドはそう語った。電話で聞いたグールドの最後の言葉、発作が起こる数時間前に聞いたその言葉は、私が本を書いたことに対する謝辞だった。電話でのグールドは上機嫌で、これまでになく体調も良好だと言っていた。いつもの冗談やからかいもあったが(私の嫌いな物真似をまた繰り返した)、今後の企画に対する新たな期待を熱意を感じさせるものだった。」(ペイザント 2007, pp. 282)
- ↑ “classical music legends : glenn gould Review - Sydney Arts Guide”. 2024年12月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月1日閲覧。
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