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グレゴリオ暦

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グレゴリオ暦(グレゴリオれき、羅: Calendarium Gregorianum、伊: Calendario gregoriano、英: Gregorian calendar)は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日金曜日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。

グレゴリオ暦は、現行太陽暦として日本を含む世界各国で用いられており、グレゴリオ暦を導入した地域では、ユリウス暦(旧暦)に対比して新暦(ラテン語: Ornatus)と呼ばれる場合もある。紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。

グレゴリオ暦の本質は、平年では1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を 365日 + (97/400)日 = 365.2425日(365日5時間49分12秒)とすることである。この平均日数365.2425日は、実際に観測で求められる平均太陽年(回帰年)の365.242189572日(2013年年央値)に比べて約26.821秒長いだけであり、ユリウス暦に比べると格段に精度が向上した。

制定に至る背景[編集]

キリスト教徒にとって復活祭は特に重要な祝祭日である。新約聖書において、イエス・キリストの処刑と復活の記事は、太陰太陽暦であるユダヤ暦に基づいて記述されており、イエスの処刑日はユダヤ教の過越しの日の前日すなわちニサン月14日(ヨハネによる福音書)または過越祭第一日目の同月15日(共観福音書)とある。このユダヤ暦ニサン月は春分の頃に来る太陰月であり、メソポタミア文明の暦においては伝統的に正月(新年)とされていたものである。

ローマ帝国領では紀元前45年にユリウス・カエサルによって制定された太陽暦であるユリウス暦を採用していたため、ローマ帝国領に住むキリスト教徒には復活祭をいつ祝うかが問題となった。初期の教会ではさまざまな方法が採用されており、ユダヤ暦に従ってニサン月15日に祝う教会や、曜日を重視してニサン月14日の直後の日曜日を復活日とする教会もあった。

他方で、エジプト暦の伝統を持つアレクサンドリアの教会では、ディオクレティアヌス紀元、コプト暦およびメトン周期を用いて季節(太陽年)と月齢(太陰月日)を独自に計算した。季節と月齢を合わせる基準日を設け、そこからメトン周期を用いて太陰年と太陽年の差を修正しながら各年の「ほぼ同じ季節に該当する太陰月日(同じ月齢の日)」を計算していけば、擬似的な太陰太陽暦を編纂するのと実質的に同じことができるのである。この方法をコンプトゥスという。ユダヤ暦ニサン月は春分の頃に訪れる太陰月であるから、春分日を基準とし、アレクサンドリア教会では春分後最初の太陰月14日のすぐ後の日曜日を復活日とした。

しかし、初期からユリウス暦と実際の太陽年のずれが問題になった。ユリウス暦は暦年の平均日数を365.25日するが、実際の太陽年は約365.24219日であるから、春分日が毎年ずれていくのである。実際、ローマ帝国ではユリウス暦施行間もない頃から3月25日を春分日とする慣習があったが、4世紀の段階で天文学的な春分日は3月21日ごろとなっており、第一次ニケーア公会議では「ユリウス暦3月21日の後、最初の太陰月14日のすぐ後の日曜日を復活日」を復活祭期日とした。

このような経緯で復活祭日が定められたが、結局後年にはユリウス暦と太陽年のずれが問題視された。イングランドの教会博士であったベーダ・ヴェネラビリスは、725年にはユリウス暦にはずれがあり、それはすでに3日間以上になっていること、このずれは今後拡大すると指摘している。

さらにメトン周期もわずかに朔望月(太陰月)とずれているため、310年ごとに1日の誤差が蓄積されていた。13世紀のロジャー・ベーコンは、ずれは7日間から8日間に及んでいると推定し、ダンテ・アリギエーリもユリウス暦の改定の必要性を説いている。

また、復活祭日が太陰月日(月齢)に準拠する方法で定められていると、ユリウス暦3月21日の月齢次第で、復活祭日の季節が1ヶ月前後してしまうという問題が生じた。

16世紀後半になると3月21日の春分日は実際の春分日から10日間弱ものずれが生じていた。ローマ・カトリック教会は改暦委員会に暦法改正を委託した。この改暦は対抗宗教改革の一環としてなされたものであって、改暦に関しては賛成・反対の立場から大きな論争となった。



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