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オランダ

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オランダ(オランダ語: Nederland 発音: [ˈneːdərlɑnt], [ˈneɪ̯dərlɑnt] ( 西フリジア語: Nederlân, パピアメント語: Hulanda)は、西ヨーロッパに位置する立憲君主制国家。東はドイツ、南はベルギーと国境を接し、北と西は北海に面する。ベルギー、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。憲法上の首都はアムステルダム(事実上の首都はデン・ハーグ)。

カリブ海のアルバ、キュラソー、シント・マールテンと共にオランダ王国を構成している。それ以外にも、カリブ海に海外特別自治領としてBES諸島と呼ばれる、ボネール島、シント・ユースタティウス島、サバ島がある。

オランダは世界において、報道の自由、経済的自由、人間開発指数、クオリティ・オブ・ライフの最上位国の一つである。2019年では、世界幸福度報告では世界第5位、一人あたりGDPでは世界第7位、人間開発指数で10位であった。2023年には、積極的平和指数で世界第11位となった。

人口:2020年時点.1740万7585人

概要[編集]

同国は、古くより他国で思想・信条を理由として迫害された人々を受け入れることで繁栄してきたという自負があるため、何ごとに対しても寛容であることが最大の特徴といえる。日本にとっては、徳川幕府による鎖国政策に際し、キリスト教の布教活動禁止という条件に欧州諸国で唯一応じ、長崎の出島を介した貿易を通じて欧州の近代文明を蘭学という形で日本にもたらし、明治維新後の急速な近代化を推し進める礎となった。

また、カトリック国として近年インドネシアからの独立を果たした東ティモールとは異なり、東インド会社によるインドネシア統治に際しても、キリスト教ではなくイスラム教の普及をむしろ領地拡大のテコとして利用した程である。2022年の今日も、ほかの欧州諸国に比して実に多くの移民が、その暮らしやすさのために、合法・非合法を問わず在住している。合法的に入国を果たしたEU域外からの移民については、オランダ語講習、社会化講習、就職相談をセットにした、いわゆる「市民化講習」の実施を他のヨーロッパ諸国に先駆けて行うなど、一定の移民対策も講じている。

しかし、イスラム系住民の中ではイスラム過激派が力を伸ばし、著名な映画監督テオ・ファン・ゴッホなどの暗殺事件やプロテスタント教会の焼き討ち事件などが頻繁に起こるようになっている。このためイスラム系住民に対する反感が増大して、イスラム移民の排斥を掲げる極右政党自由党が勢力を伸ばし、自由党が閣外協力する現政府もイスラム系移民の規制やイスラム教徒の衣装であるブルカの禁止などの政策を採用するようになった。EU憲法の国民投票での否決にも、このような感情が反映されているとされる。

一方、大麻等ソフトドラッグの販売・所持・使用、積極的安楽死が認可されており、いくつかの欧州諸国とともに合法化されている。もっとも、ソフトドラッグに関しては当局により設けられた規則に従い厳格な管理・監視がなされており(コーヒーショップと呼ばれる店でのみ認められている)、バルケネンデ政権の時代は一部見直しも検討していた。また、安楽死についても依然として見直しの議論が続いている。

1991年には刑法が改正され、16歳以上でポルノ出演、性行為が適法とされる。これに基づき、国の許可を得れば管理売春も合法である(事実、売春を国の管理の下で合法化したことで衛生状態の向上が図られており、性感染症感染率も低下したとの結果が挙げられている)。また税収増加、売春に従事する女性達の保護の充実などが実現したとも言われている。

このようなことから世界有数の「性の解放区」として知られているものの、性犯罪をすれば容赦なく逮捕されることには他国となんら変わりがない。またこれらの行為に関わることはそれなりにリスクも大きいので、自由な一方で自己責任で行動しなくてはならない国だとも言える。

歴史[編集]

独立から18世紀[編集]

元来、現在のベネルクス地方は神聖ローマ帝国の領域の一部で、毛織物産業や海上貿易により栄えていた。15世紀末からスペインを本拠とするハプスブルク家の領土(家領)となった。宗主国スペインによる重税政策に対する反発とともに、主に現在のオランダ地域を中心とするネーデルランド北部地方の宗教は利潤追求を求めるカルヴァン派が多数を占めていたため、カトリックを強制する宗主国スペインとの間で1568年にオランダ独立戦争が勃発した。このため、オランダの近代史は、通常、オランダ連合州がスペインからの独立を宣言した1579年から始まる。しかし、戦争の長期化により、カトリック教徒の多かった南部10州(現在のベルギーとルクセンブルク)は、独立戦争から脱落した。この八十年戦争の結果、1648年のヴェストファーレン条約で独立を承認された。

17世紀初頭以来、ネーデルラント連邦共和国は東インドを侵略してポルトガルから香料貿易を奪い、オランダ海上帝国を築いて黄金時代を迎えた。英蘭戦争に重なってオランダ侵略戦争が起こり、本土へ災禍をもたらした。しかしウィレム3世総督時代に、ルイ14世の出したフォンテーヌブローの勅令が中産ユグノーを共和国へ大挙亡命させた。彼らの力により、独立戦争からすでに卓越していた繊維・染料産業がさらに進歩した。加えてデルフトの陶器とアムステルダムのダイヤモンド加工も世界に知られた。ウィレム3世は名誉革命でイギリスへ渡った。

フランス革命が勃発すると、革命軍が侵入しバタヴィア共和国が成立した。バタヴィアは1806年、ナポレオンの弟ルイ・ボナパルトを国王とするホラント(オランダ)王国に変えられた。さらに1810年フランスの直轄領として併合された。

19世紀から二次大戦まで[編集]

ナポレオン戦争後のウィーン会議ではこれまでオーストリア領であった南ネーデルラント(現在のベルギー・ルクセンブルク)を含むネーデルラント王国が成立し、オラニエ=ナッサウ家が王位に就いた。

オランダ全土の労働者人口と南ネーデルラント農民の大部分はカトリック信者であった。南ネーデルラントを統合しようとするとき、王に対しカトリックの聖職者はウィレム1世と憲法に反対した。オランダは残された東インド植民地(オランダ領東インド、今日のインドネシア)で過酷な搾取を行った。

1830年、カトリックと自由主義者による独立戦争が起こる。1839年、オランダはベルギーの独立を承認した。

1873年(明治6年)には岩倉使節団がオランダを訪問しており、当時のロッテルダム・ハーグ・アムステルダムなどの様子が『米欧回覧実記』に、一部イラストつきで詳しく記されている。

19世紀後半から20世紀初頭のオランダ社会は、政治的にはカトリック・プロテスタント・社会主義・自由主義という4つの柱で組み立てられていった。オランダは第一次世界大戦で中立を維持したが、そのときから1960年代まで存在していたオランダの社会システムは「柱状化(verzuiling)社会」と呼ばれた。政党を中心として、企業・労組・農民・大学・銀行・マスメディアその他にわたり、徹底的に4つの柱で住み分けと縦割りがなされた。(→多文化社会 )

1921年、ハーグに国際司法裁判所が設置された。相対的安定期、オランダのゾイデル海開発が進められた。

第二次世界大戦とその後[編集]

第二次世界大戦では中立を宣言するも1940年5月10日未明、ナチス・ドイツはオランダと隣国のベルギーに侵攻を開始した(オランダにおける戦い)。複数のオランダの飛行場や各都市の後背に対し空挺兵を降下させて占拠。奇襲作戦は成功して、オランダは1週間あまりの戦いで敗北、王族はイギリスに亡命した。その後、亡命政権は1941年に中立を破棄し日本に宣戦布告するが、東インド植民地はまもなく日本軍に占領されている。オランダ本国はドイツによる軍政が敷かれた。

この時期に、「アンネの日記」で有名となるフランク一家など多くのユダヤ人がホロコーストに遭い、強制収容所へ送られている。オランダ本土については、1944年9月に連合軍がマーケット・ガーデン作戦を実施してアイントホーフェンおよびその周辺地域を解放するが、アムステルダムを含めた多くの地域の解放は、1945年春にドイツが降伏してからである。東インド植民地は夏に日本軍が撤退し、その後は再びインドネシアに侵攻してインドネシア独立戦争を戦った。

戦後国力が低下していたうえに、これまでの過酷な植民地支配に憤慨したインドネシア独立勢力を抑えることはできなかった。国際世論の支持も得られず、アメリカや国際連合の圧力もあって独立を承認せざるを得なくなり、結果として国際的地位の低下を招いた。戦争の終盤、ウィレム・ドレースが首相を務めていた。

1960年から水路問題が段階的に解決された。

1964年、王女イレーネがカルロス・ウゴ・デ・ボルボン=パルマと結婚し、王位継承権を放棄した。2年後、ベアトリクス王女がクラウス・フォン・アムスベルクと結婚し、国民から怒りを買った。1967年、アントウェルペンが運河でライン川と結ばれた。

1973年からの労働党連立政権において新旧両宗派が支持を失い、1980年に大合同してキリスト教民主アピールとなった。

1992年、ベネルクス3国として欧州共同体の創設メンバーとなり、欧州連合に発展させた。

オランダとアジア植民地[編集]

オランダは早くから世界進出し、アジアとも関わりが深い。オランダによるジャワ島を中心とするオランダ領東インド支配においては、1825〜30年に起きた民衆反乱を弾圧したのち、「強制栽培制度」を1830年に実施した。これは、ジャワ農民に対し、土地の一定割合で稲作など食用の栽培を禁止し、コーヒーやサトウキビといったヨーロッパ輸出用の高級作物の栽培を強制する制度で、ナポレオン戦争後のオランダ本国がおかれた経済的苦境を、打破するためのものであった。この制度により、ジャワから強制栽培品を安く買い上げ転売したオランダは経済が好転、鉄道建設をはじめ、産業革命と近代化のための資本蓄積に成功した。

厳罰によって実施されたこの制度で、ジャワ農民は稲や麦という自給食料を失い、1843〜48年には飢饉に苦しみ多数の餓死者を出したと言われている。強制栽培制度は中断を伴い形を変えて20世紀まで続けられ、第二次世界大戦中の日本軍のオランダ領ジャワへの侵攻とその撤退後も解決されず、インドネシアとオランダとの独立戦争の終戦まで続いた。

オランダは東南アジアを長期にわたって植民地支配してきたが、その違法性をただす動きはほとんど見られず、植民地支配は当時の政治体制の一部として容認されていたという認識が一般的である。1995年にベアトリクスはインドネシアを訪問し、「植民地支配はお互いに恵みを与えた」とスピーチして、インドネシア人を憤慨させた。植民地支配への謝罪はなかったが、オランダ国内で批判されることはなかった。ウィム・コック首相は、2000年12月に、インドネシアに対して、植民地時代のオランダの行為に関して謝罪する用意があると表明したが、国内で嵐のような世論の反発にあい、謝罪は立ち消えとなり、元軍人団体は「謝罪は独立戦争の犠牲になったオランダ兵に対する侮辱である」と猛反発した。オランダは奴隷制に深く関与した国であるが、2001年のダーバン会議(英語版)で、人種差別とアフリカの貧困の淵源には奴隷制と植民地主義があるとして「遺憾の念」を表明したが、賠償・補償の実施には至らず、奴隷制や植民地主義に対する責任として金銭を拠出するのはふさわしくないという立場を堅持し、代替として、経済支援を通じて、アフリカの雇用、健康、経済を支援することを主張した。ただし、オランダの対応は近年変化しているとも指摘され、2005年8月、インドネシア建国60周年記念にジャカルタを訪れたベン・ボット(英語版)外務大臣 (オランダ)(英語版)は、日本軍降伏後に独立戦争に攻撃を加えたことに「遺憾の念」を表明したが、それ以上の植民地支配の違法性に踏み込み、法的責任として対処することは躊躇しており、国家賠償はしないものの未来志向の経済支援で事態を収めようとするやり方を堅持している。

政治[編集]

政体は立憲君主制で、国家元首は2013年4月30日に即位したウィレム=アレクサンダー。

議会であるスターテン・ヘネラールは二院制で、第二院150名、第一院75名から構成され、議院内閣制をとる。

第二次世界大戦後、オランダは寛容な国風を基に福祉国家を築きあげたが、1970年代のオイルショックの後は、「オランダ病」と呼ばれる不況と財政の悪化に苦しんだ。その対策として1982年にワッセナー合意が結ばれ、雇用の確保に努めながら企業の国際競争力の向上を図ったことで、1990年代には経済成長と失業率の低下が実現し、「オランダ・モデル」として注目を集めた。しかし、リーマン・ショックに端を発した経済危機を受けて、さらなる財政の緊縮が求められている。

2010年2月20日、キリスト教民主アピール、労働党とキリスト教同盟の3党連立から労働党が離脱したことで第4次バルケネンデ政権が崩壊した。これを受けて同年6月9日に第二院の総選挙が実施され、マルク・ルッテ率いる自由民主国民党が31議席を得て第1党となった。しかしながら複数の政党との間で協議が難航し、連立の枠組みがなかなか定まらなかった。最終的には21議席を得たキリスト教民主アピールと組み、同年10月14日にルッテを首班として、少数与党による中道右派連立政権を発足させることとなった。この連立政権は24議席を持つ極右政党の自由党の閣外協力を受けた。その後、2012年に再度総選挙が行われ、第1党を維持した自由民主国民党と第2党となった労働党との連立による第2次ルッテ内閣が成立した。

2021年12月13日、ルッテ首相率いる自由民主党など4党は2021年オランダ総選挙から約9カ月経過してようやく連立政権を組むことで合意した、選挙から合意までかかった日数は271日で、過去最長を記録した。

2023年7月、連立政権内で移民問題対応への合意が図れず、ルッテ首相は内閣総辞職を表明。11月22日に行われたオランダ総選挙では、「オランダのトランプ」と揶揄されるヘルト・ウィルダースが率いる自由党が37議席を獲得して第1党となり、ルッテ首相が所属する自由民主国民党は24議席にとどまって第3党となった。ウィルダースの首相就任は自身の過激な発言や詐欺疑惑によって難しくなり、連立4党の党首は内閣のメンバーにはならないことで合意。選挙から約半年後の2024年6月11日、自由党、自由民主国民党、新社会契約(英語版)、農民市民運動(英語版)の4党による連立交渉がまとまり、7月2日、無所属のディック・スホーフが首相に就任した。ウィルダースは移民厳格化を掲げており、治安機関トップを務めた経験のあるスホーフに白羽の矢が立った。約14年にわたって首相を務めたルッテは、NATO事務総長への就任が内定している。



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