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インディアナ州

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インディアナ州(インディアナしゅう、英: State of Indiana )は、アメリカ合衆国の中西部に位置する州。五大湖地域にも含まれる。アメリカ合衆国50州の中で陸地面積では第38位、人口では第17位である。前身のインディアナ準州から1816年12月11日に合衆国19番目の州に昇格した。州の北はミシガン州に、東はオハイオ州、西はイリノイ州、南はケンタッキー州に接している。州都はインディアナポリス市であり、人口最大の都市でもある。

2020年時点人口:6,785,528人

73.0人/km²

家庭で話される言語(インディアナ州) 2010
英語 92.23%
スペイン語 4.39%
人種構成(インディアナ州) 2010
白人 81.5%
黒人 9.1%
ヒスパニック 6.0%
アジア系 1.6%
インディアン 0.3%
混血 2.0%

州名の由来[編集]

州名は「インディアンの土地」を意味する。この名前は少なくとも1760年代に遡るが、北西部領土から分離してインディアナ準州が成立した1800年に、アメリカ合衆国議会によって現在のインディアナ州、イリノイ州、ウィスコンシン州、ミネソタ州にあたる地域に適用されたのが最初である。

インディアナ州住民は「フージャー」と呼ばれている。この言葉の語源は諸説あるが、インディアナ州歴史局とインディアナ州歴史協会が提唱する有力な説としては、アップランドサウス地域で野卑な田舎者を指す蔑称から来ているというものである。また、現地の人は、「中西部インディアナ州訛りの英語で"Who's there?"と発音した場合、"Hoosier"に聞こえる」と説明する。

歴史[編集]

アメリカ支配以前[編集]

現在のインディアナ州となった領域の最初の住人は、氷河時代の終わりに氷河が溶けた後、紀元前8000年ごろに入ってきたパレオ・インディアンだった。彼等は小さな集団に別れ、マストドンなど大型動物を狩猟する移動性の民だった。チャートを叩いたり砕いたり剥がしたりして石器を作った。紀元前5000年から4000年の古代には次の先住民文化が興っていた。この人々は文明化の重要なステップとして新しい道具を作り、調理を始めていた。その道具には様々な形状の槍先やナイフ、鏃があった。石斧のような石を加工する道具や、木材を加工する道具、また石臼などもあった。この期間の後期には土盛りのマウンドや貝塚を築いており、集落が恒久的なものに変わってきたことを示している。古代は紀元前1500年ごろに終わったが、その流れを引く人々は紀元前700年ごろまで住んでいた。その後はウッドランド時代となり、様々な新しい文化が現れた。この期間には土器や陶器を作り、穀物の栽培を拡大した。アデナ文化では埋葬儀式を行い、土盛りマウンドの下に木材の墓を作った。ウッドランド時代の中期、ホープウェル文化では遠距離の地との交易を始めていた。後期には生産性の高い農耕法を始め、トウモロコシやカボチャなどを栽培していた。ウッドランド時代は西暦1000年ごろに終わった。

ミシシッピ文化は西暦1000年ごろから、ヨーロッパ人が到着する直前の15世紀まで続いた。この期間にはその宇宙観に従った大型の集落を造り、儀式や公共の用途のために大きなマウンドや広場を造った。集落の集積度は農業生産量の余裕度に依存していた。そのような複合的集落の例がインディアナ州南部にあるエンジェル・マウンドである。広場や舞台状のマウンドのような公共の大型空間があり、そこに指導者が住み儀式を行った。インディアナにおけるミシシッピ文化は現在でも分からない理由で1400年代半ばに崩壊した。ヨーロッパ人がこの地域に到着したとき、インディアン部族はアルゴンキン語族の異なる言語を話していた。その中にはショーニー族、マイアミ族、イリノイ族などがいた。これに東部が逃亡してきた部族が加わった。

1679年、フランス人探検家ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールがセントジョセフ川沿い現在のサウスベンド市に達した後、インディアナを横切った最初のヨーロッパ人となった。ラーサールは翌年にも戻ってきて地域のことを調べた。間もなくフランス系カナダ人の毛皮交易業者が入ってきて、インディアンと交易を行い、毛皮の代償に毛布、宝石、道具、ウィスキー、武器などを与えた。1702年までに、スール・ジュシュローがビンセンズ近くに最初の交易基地を設けた。1715年、スール・ド・ビンセンヌがケキオンガ、現在のフォートウェインにマイアミ砦を建設した。1717年、カナダ人のピコート・ド・ベレトルがウォバッシュ川沿いにウィアテノン砦を建設し、エリー湖からミシシッピ川までのインディアン交易ルートを支配しようとした。1732年、スール・ド・ビンセンヌはビンセンズに2番目の毛皮交易基地を建設した。以前にはインディアンからの敵対があったために基地を離れていたフランス系カナダ人開拓者が大挙して戻ってきた。その後幾らも経たないうちに、イギリス人開拓者が東部から移ってきて、魅力ある毛皮交易の支配を巡りカナダ人と争うようになった。その結果、1750年代を通じて、フランス人とイギリス人の植民者の間に戦闘が続いた。

フレンチ・インディアン戦争(七年戦争の北アメリカ戦場)のとき、インディアナのインディアンはフランス系カナダ人の側に付いた。1763年にイギリスが勝利し、フランスは北アメリカにおけるイギリス植民地の西部と北部の領土をイギリスに割譲することを強いられた。

それでもインディアナのインディアンは諦めなかった。ポンティアック戦争の間にウィアテノン砦とマイアミ砦を破壊した。イギリスによる1763年宣言で、アパラチア山脈から西の領土はインディアン領土と呼ぶインディアンの土地とされ、この地域から開拓者を閉め出した。1775年、イギリスの植民地では自治とイギリスからの独立を求めてアメリカ独立戦争が始まった。戦闘の大半は東海岸とその近くで起こったが、西部ではジョージ・ロジャース・クラークのような軍人がイギリスと戦うための軍隊を求めた。クラークの部隊は重要な戦闘に勝利し、1779年2月25日にはビンセンズ砦とサックビル砦を占領した。この戦争中、クラークは西部から東部植民地人を攻撃しようというイギリス軍を阻止することに成功した。その功績はアメリカ独立戦争の流れを変えたとされている。パリ条約によって戦争が終結すると、イギリスは五大湖より南の領土を新生アメリカ合衆国に譲渡したが、それには支配していなかったインディアンの土地も含まれていた。



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