アーン・マリー
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アーネスト・レーラー・「アーン」・マリー(Ernest Lalor "Ern" Malley)は、架空の詩人で、オーストラリアの最も有名な文学上の捏造である。
1943年の或る日に、彼と彼の全作品が、保守的な作家ジェームズ・マコーレー(James McAuley)およびハロルド・スチュワート(Harold Stewart)によって、マックス・ハリス(Max Harris)およびそのモダニスト雑誌『Angry Penguins』に一杯食わせる目的で、作られた。ハリスは、その雑誌をメルボルンのハイデ近代美術館(Heide Museum of Modern Art)のジョン・リードと共同編集した。捏造者らは、自分らが軽蔑しているモダニストの詩を模倣してひどい韻文だと考えたものをわざと創作し、アーン・マリーの生きている姉妹エセルを装って16個の詩作品を『Angry Penguins』に投稿した。ハリスその他のハイデ・サークルのメンバーは、捏造にひっかけられ、詩のわなにかかって『Angry Penguins』の次号をマリーに捧げた。捏造は、その後まもなく暴露され、『悪名高い裁判事件』(cause célèbre)とハリスの屈辱に終わったし、彼は公判に付され、詩作品がわいせつな内容を含んでいるという理由でそれらを刊行したことで有罪判決を言い渡され、罰金に処せられた。1946年に『Angry Penguins』は終わった。
その後、数十年間で、捏造は、オーストラリアにおけるモダニスト詩にとって意義深い後退であると判った。しかし1970年代以降、アーン・マリーの詩作品は、捏造であると知られているのに、シュールレアリスト詩の成功した例として祝福されるようになり、ジョン・アッシュベリー(John Ashbery)、ケネス・コッフ(Kenneth Koch)、およびロバート・ヒューズ(Robert Hughes)のような作家、批評家によって賞賛されるようになった。アーン・マリーの詩作品はいまや、その作者の詩よりも広く読まれているし、事件は、ピーター・ケアリー(Peter Carey)やシドニー・ノーランのような作家、美術家による作品に霊感を与えている。アメリカの詩人でアンソロジー編者 デーヴィッド・レーマン(David Lehman)はアーン・マリーを「20世紀の最も偉大な文学上の捏造」("the greatest literary hoax of the twentieth century")と呼ばわった[2]。
背景[編集]
1944年に、ジェームズ・マコーレーおよびハロルド・スチュワートは両者ともにディレクトリット・オヴ・リサーチ・アンド・シヴィル・アフェアーズ(Directorate of Research and Civil Affairs)に居た。 戦争前に、2人は、シドニーのボヘミアン芸術界の一部になっていた。マコーレーは、シドニー大学で、左翼のレヴューで演じ、歌っていた。両者ともに、初期のモダニズムを、その後期の諸形式よりも、選んだ。たとえば、マコーレーは、T・S・エリオットの『The Love Song of J. Alfred Prufrock』(1917年)は天才だ、しかしそれに続く、多くの人によってエリオットの最高の達成と見なされる『荒地_(詩)』(1922年)は首尾一貫しないめちゃくちゃだ、と主張した 英語版[要出典]。男は2人とも、詩における「意味および職人わざの喪失」(the loss of meaning and craftsmanship")を悲しんだ。2人は、十分な資金を提供されたモダニスト詩雑誌『Angry Penguins』をとくに軽蔑し、雑誌の創刊者で編集者のマックス・ハリス(Max Harris)の早熟な成功に憤慨していた。
ハリスは、アデレードの22歳の『アヴァンギャルドな』(avant-garde)詩人 兼 批評家であったし、1940年に18歳で、『Angry Penguins』を始めていた[3]。
捏造を実行する[編集]
スクリプトエラー: モジュール「Multiple image」はありません。 マコーレーおよびスチュワートは、その雑誌宛てに無意味な詩を投稿することによってハリスおよび『Angry Penguins』に対していたずらを実行することに決めたし、これが、架空の詩人に変装して、モダニストの複数の傾向のうち最悪のものを捕らえる、と彼らは感じた。 彼らは、詩人「アーネスト・レーラー・マリー」("Ernest Lalor Malley")の架空の伝記を思いつき、彼は前年に25歳で死亡した、と主張した。 その名前は「高度にオーストラリアふうに聞こえるハンドル」("highly Australian-sounding handle")である:「マリー」("Malley")は、オーストラリア植生のいち部類[ユーカリ属の常緑低木]と特有原産の鳥マリーファウル(malleefowl)[クサムラツカツクリ]とを意味している単語「マリー」(mallee)の地口であり、「レーラー」("Lalor")は、1854年のユリーカ・レベリオン(Eureka Rebellion)の指導者 ピーター・レーラー(Peter Lalor)を思い出させる[4]。 それから、或る午後に、彼らは、全作品の本体を書いた:17個の詩で、長さ1ページもなく、すべては『The Darkening Ecliptic』のタイトルの下に、連続して読まれる意図である。
彼らの執筆スタイルは、彼らが説明していることだが、『Concise Oxford Dictionary』、『Collected Shakespeare』、そして『Dictionary of Quotations』から複数の単語およびフレーズを盗用しながら、最初に頭に浮かんだことを書きとめることであった:「われわれは、無作為に複数の書籍を開き、単語あるいはフレーズを選んだ。われわれは、それらを複数の表にし、それらを移動させ無意味な複数のセンテンスにした。われわれは誤引用し、いつわりの引喩(false allusions)をおこなった。われわれは、ひどい韻文をわざと実行し、『Ripman's Rhyming Dictionary』からやっかいなな韻を選んだ("We opened books at random, choosing a word or phrase haphazardly.We made lists of these and wove them in nonsensical sentences.We misquoted and made false allusions.We deliberately perpetrated bad verse, and selected awkward rhymes from a Ripman's Rhyming Dictionary.")[5]。それらは、自身の詩の多くの小片を、ただしわざと支離滅裂なふうに、含んだ。
シークエンス『Durer: Innsbruck, 1495』のなかの1つめの詩作品は、ハリスに訴求するように編集された、未公表の懸命な努力であった。
I had often cowled in the slumbrous heavy air,
Closed my inanimate lids to find it real,
As I knew it would be, the colourful spires
And painted roofs, the high snows glimpsed at the back,
All reversed in the quiet reflecting waters –
Not knowing then that Durer perceived it too.
Now I find that once more I have shrunk
To an interloper, robber of dead men's dream,
I had read in books that art is not easy
But no one warned that the mind repeats
In its ignorance the vision of others. I am still
The black swan of trespass on alien waters.
デイヴィッド・ブルックス(David Brooks)は、その2011年の書籍『The Sons of Clovis: Ern Malley, Adoré Floupette and a Secret History of Australian Poetry』のなかで、アーン・マリー捏造事件は、1885年のフランスの象徴主義およびデカダン運動に関する諷刺である、アンリ・ビュクレール(Henri Beauclair)およびガブリエル・ヴィケール(Gabriel Vicaire)による『Les Déliquescences d'Adoré Floupette』を基にして作った、と立論した。スチュワートは、アーン・マリー捏造事件のときにフルーペット(Floupette)のことを聞いたことはいちどもないと主張し、マコーレーが持ったという証拠はないいっぽうで、彼の、「"Symbolism: an essay in poetics"」というタイトルの修士論文はフランス象徴主義の詩および詩学の研究を含んでいた[6]。
「アーン・マリー」の伝記[編集]
アーネスト・レーラー・マリー(Ernest Lalor Malley) | |
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生誕 | スクリプトエラー: モジュール「Separated entries」はありません。 |
失踪 | スクリプトエラー: モジュール「Separated entries」はありません。 |
死没 | スクリプトエラー: モジュール「Separated entries」はありません。 |
墓地 | スクリプトエラー: モジュール「Separated entries」はありません。 |
国籍 | イギリス |
著名な実績 | 詩 |
代表作 | 『The Darkening Ecliptic』 |
捏造者らの架空の伝記によれば、アーネスト・レーラー・マリー(Ernest Lalor Malley)は、1918年3月14日に、イングランド、リバプールに生まれた。父親は1920年に死亡したし、マリーの母親は2子:アーン(Ern)、と姉エセル(Ethel) とともに、オーストラリア、シドニーの郊外ニュー・サウス・ウェールズ、ピーターシャム(Petersham)に移住した。1933年の母の死ののち、アーン・マリーは学校をやめ、自動車工として働いた。17歳の誕生日の直後、彼はそれからメルボルンに移り、そこで彼はひとり暮らしをし、保険外交員として、のちにウォッチ修理職人として、働いた。1940年代前半にときどきグレーヴズ病(Graves' disease)と診断されて、マリーは治療を断った。彼は、1943年3月に姉妹とともにシドニーに戻り移り、そこで彼はいよいよ病気になり(気質のそして困難なのみならず)、同年7月23日に25歳で死亡した。
マリーの詩人としての生涯は、姉エセル(Ethel)(マコーレーおよびスチュワートのもうひとつの架空の捏造)が彼の所有物のなかに未公表の詩作品の山を見つけたのちに、知られるようになった。これら詩作品は、短い序文を特徴とし、それはそれらが5年間にわたって制作されたことを説明したが、それはそれらをどうすべきか指示を残さなかった。エセル・マリーは詩については何も知らないとされたが、それら詩作品を或る友人に示したし、その友人は、彼女がだれかそれらを検討し得るひとに詩作品を送ってはどうか、と提案した[7]。『Angry Penguins』のマックス・ハリス(Max Harris)が、そのだれかになる運命であった。
捏造を実行する[編集]
マコーレーおよびスチュワートはそれからハリス宛てに、エセルからということにして、詩作品を含む手紙を送り、亡き兄弟の作品に関する意見を求めた。
ハリスは、詩作品を読み、のちに回想したが、高まる興奮を覚えた。彼は、アーン・マリーはW・H・オーデンあるいはディラン・トマス級の詩人である、と考えた。彼は文学友人仲間にそれらを示し、彼らは、たいへん重要な、まったく未知のモダニスト詩人がオーストラリア郊外から発見されたということで意見が一致した。彼は、『Angry Penguins』の特別号を急いで出すことに決め、その表紙のために、詩作品に基づく、シドニー・ノーランによる、絵を注文した[3]。
『Angry Penguins』の「1944年秋」("Autumn 1944")版が、戦時の印刷遅延のために1944年6月に刊行された[8]。ハリスは、オーストラリア作家批評家の小さな世界で販売を促進した。反応は、彼が希望したあるいは期待していたものではなかった。マリーの詩作品を嘲笑し、ハリス自身が手の込んだ捏造のためにそれらを書いたことを示唆している記事が、アデレード大学(University of Adelaide)の学生新聞に、載った。
捏造が暴露される[編集]
6月17日に、アデレードの『Daily Mail』は、ハリスは一杯食わせた者というよりもむしろ一杯食わせられた者である可能性を提出した。ハリスは、驚いて、アーンおよびエセル・マリーが存在しているあるいはかつて存在したか否かを立証するために、私立探偵を雇った。しかし、そのときまでには、オーストラリアの国内報道は追跡中であった。翌週、シドニーの『Sunday Sun』は、調査報道をおこなっていたが、アーン・マリーの詩作品が実際にはマコーレーおよびスチュワートによって書かれたということをそれとなくほのめかしている第1面の記事を載せた[9]。
南オーストラリア警察は、マリーの詩作品がわいせつであるという理由で、『The Darkening Ecliptic』に捧げられた『Angry Penguins』の号を没収した[2]。
アーン・マリー捏造事件は、何週間も複数の新聞の第1面に載り、ハリスは屈辱を与えられた 英語版[要出典]。
捏造が暴露されたのち、マコーレーおよびスチュワートはつぎのように書いた:
ミスタ・マックス・ハリス(Mr. Max Harris)その他の『Angry Penguins』の著者らは、イギリスおよびアメリカで顕著になった文学上の流行の、オーストラリア的露出を呈している。流行の独特の特徴のために、熱愛者らは不条理に対して無感覚になり、普通の識別が不可能になったということであった、ようにわれわれにはおもわれた。われわれの感じでは、このユーモアに欠けるナンセンスの実行者は危機的な自己欺瞞と相互賛美の過程を経て、まんまと国内外の『インテレクチュアル』(intellectuals)および『ボヘミアン』(Bohemians)になるつもりの人々にそれを『偉大な詩』(great poetry)としてつかませた、というものであった。 [...] しかし、われわれがこれらの創作物の内的実質にまで透徹することがどうしてもできなかったということは、ありえた。唯一の解決法は、実験を手段としてであった。結局のところ、それは程度、正しかった。もしミスタ・ハリスがそれら詩作品を拒絶するだけの識別力を持っていると判ったならば、形勢が逆転していたであろう[10]。
直接の衝撃[編集]
『Angry Penguins』はまもなく終わったが、ただし、雑誌の終焉は、ハリスに対して起こされた文書誹毀訴訟と支持者ジョン・リードとその妻サンデー・リードのオープン・マリッジにおける複数の出来事からの感情的な結果とさらに多くの関係があった 英語版[要出典]。
諸芸術に対する関心のある、よい教育を受けた人々を含む、大部分の人々は、マコーレーおよびスチュワートの「実験」("experiment")の妥当性について確信した。2人は、ひどい詩をわざと書き、もっともらしい偽名で、モダニスト詩の、国のいちばん著名な発行者につかませ、彼を完全にだました。ハリスは、いつわりの詩と本物の詩を、わるいものとよいものを区別することはできなかった、と彼らは言った。
アーン・マリー捏造事件は、長期間、持続する悪影響を及ぼした。『Oxford Companion to Australian Literature』を引用して言えば、「捏造そのものよりも重要なのは、それがオーストラリアの詩の発展に及ぼした効果であった。『Angry Penguins』グループのメンバーらに加えて、多くの作家と批評家に支持される、オーストラリア執筆におけるモダニズムの激しく正当な運動は、厳しい後退を喫し、そして保守的な要素が疑いもなく強固になった」("More important than the hoax itself was the effect it had on the development of Australian poetry.The vigorous and legitimate movement for modernism in Australian writing, espoused by many writers and critics in addition to the members of the Angry Penguins group, received a severe setback, and the conservative element was undoubtedly strengthened.")[11]。
アーン・マリーをめぐる論争は、20年間超、続いた。 それは、イギリスの文芸批評家ハーバート・リードが捏造にだまされたとき、オーストラリアを越えて広がった。パトリック・ホワイト(Patrick White)のようなモダニスト小説家らと抽象画家らは、自分らがアーン・マリーのブラシでタールを塗られ汚されているのに気づいた 英語版[要出典]。マコーレーおよびスチュワートの両者と、ヴァンス・パーマー(Vance Palmer)およびネッティー・パーマー(Nettie Palmer)の周りの左翼のナショナリスト派は、理由は異なるが等しい毒液を帯びたモダニズムの『Angry Penguins』版が嫌いであったから、アーン・マリーは、オーストラリアの文化生活の上に長い影を投げた 英語版[要出典]。
1975年に、シドニー・ノーランは、アール・ハケット(Earle Hackett)とのインタヴューで、アーン・マリーには、自分を奮起させて最初のネッド・ケリー(Ned Kelly)シリーズ(1946年 - 1947年)を描かせた功績があると認め、「それのためにわたしはまったく奇妙な物をオーストラリアの灌木に当てることを覚悟してやった」("It made me take the risk of putting against the Australian bush an utterly strange object")、と言った[1]。
マコーレー、スチュワートおよびハリスの晩年[編集]
マコーレーは、続けて数巻の詩を刊行し、リチャード・クリーガー(Richard Krygier)とともに文学カルチャー・ジャーナル『Quadrant』を創刊した。1961年から彼はタスマニア大学(University of Tasmania)のイングリッシュの教授(professor of English)であった。彼は1976年に死亡した[12]。
スチュワートは、1966年に日本国に永住し、伝統的な日本語の詩の翻訳を2巻、刊行し、それはオーストラリアでベストセラーになった。彼は1995年に死亡した 英語版[要出典]。
しかし、ハリスは、ひとたびアーンマリー捏造事件の屈辱から回復すると、悪名を最大限、利用した。1951年から1955年まで、彼は別の文学雑誌を刊行し、彼はそれを『Ern Malley's Journal』と名づけた。1961年に、彼は、反抗の意思表示として、マコーレーおよびスチュワートが何を『意図』(intended)したにせよ、彼らは、実際は、いくつかの記憶すべき詩作品を創作した、と主張しながら、アーン・マリーの詩作品を再公表した。ハリスは続けて、成功した書店主 兼 新聞コラムニストになった。彼の政治的意見は、年をとるにつれて著しく右に動いたし(彼は捏造の当時、共産党のメンバーになっていた)、1960年代なかばに彼は、アーン・マリーを創作したマコーレーおよびスチュワートの動機に同情すると主張した 英語版[要出典]。ハリスは1995年に死亡した。
その後の正当な再評価[編集]
架空のアーン・マリーは、名声の程度を達成した。それらの詩作品は定期的に再公表、引用されている。少なくとも20の、『Darkening Ecliptic』の、全部あるいは一部の、公表があった。それは - オーストラリアにのみならず、ロンドン、パリ、リオン、京都(Kyoto)、ニュー・ヨークおよびロサンゼルスにもまた - ふたたび現われている。
文芸批評家のなかには、マコーレーおよびスチュワートはアーン・マリーの詩作品のでっち上げで策略で不利益を招いた、という意見のひともいる。「神話はときにはその作者よりも偉大なことがある」("Sometimes the myth is greater than its creators")とマックス・ハリス(Max Harris)は書いた。ハリスはもちろん、マリーに対して個人的に強い関心があったが、他人は彼の判定に賛成している。ロバート・ヒューズ(Robert Hughes)は、つぎのように書いた:
アーンの擁護者らによってなされた主張は、彼の創作がシュールレアリストの手順の正しさを証明したということであった:マコーレーおよびスチュワートは、油断し、自由な連関と偶然に自分を開きさらしたときに、パロディーの裏口から霊感を受けていたということ。そしてこれはすべての詩作品のために、議論され得ないし、なかには、その一部あるいは全部はちんぷんかんぷんであるものもあるが、それは、重みのある真実を含んでいる...マコーレーおよびスチュワートがアーン・マリーのでっち上げに注ぎ込んだエネルギーは、文学的価値のあるアイコンを創作したし、それゆえ彼は、われわれの文化に取り憑き続けている(The basic case made by Ern's defenders was that his creation proved the validity of surrealist procedures:that in letting down their guard, opening themselves to free association and chance, McAuley and Stewart had reached inspiration by the side-door of parody;and though this can't be argued on behalf of all the poems, some of which are partly or wholly gibberish,it contains a ponderable truth...The energy of invention (that McAuley and Stewart brought to their concoction of Ern Malley created an icon of literary value, and that is why he continues to haunt our culture.) 英語版[要出典]。
『Locus Solus』の「"Special Collaborations Issue"」の「"Individual Notes on Works and Authors"」のなかで、 ケネス・コッホ(Kenneth Koch)は、つぎのように書いた、「ハリスは、アーン・マリーがだれ「 『であった』('was')(もしここでこの語を使うことができるならば)かに関して間違っていたが、わたしは、マリーの詩に関する判断に賛成することは難しいとわかった」("Though Harris was wrong about who Ern Malley 'was' (if one can use that word here), I find it hard not to agree with his judgment of Malley's poetry.")。
アメリカの詩人ジョン・アッシュベリー(John Ashbery)は、雑誌『Jacket』上のインタヴューで、アーン・マリーに関してつぎのように言った:
わたしは、ハーヴァードで学生だった初夏であったと思う、そこで素晴らしい書店を見つけ、そこでモダンな詩を得ることができた - わたしはそのときまであまり多くをつかむことができないでいた - それらは、表紙がシドニー・ノーランの『The Darkening Ecliptic』のオリジナル版だった。 [...] わたしは荒々しい実験的な詩をずっと愛好していた - 当時アメリカで英語で(in English in America at the time)ほんとうにあまり多くなかった - そしてこの詩作品はおおいにわたしの気に入った。 [...] わたしは[ニュー・ヨーク、ブルックリン・カレッジの]詩執筆コースで最終試験をしなくてはならなくて、われわれはほんとうに何も勉強していないから、そうすることが難しいとずっとわかっている。学生らは、さまざまな程度の詩を書いているし、わたしは、まず彼らを要求したのちに、彼らが無視しがちな選定図書一覧表を彼らに与えている。コースがそこで設けられた方法は、彼らの読書に関して試験する手段ではけっしてない。とにかく彼らは試験に合格すべきでない、なぜなら彼らは、詩を書いている詩人であり、そしてわたしは詩作品を等級づけるという考えが気に入らない。それだから試験時間を過ごす目的で、わたしはさまざまな言い逃れを考えつかねばならなかったし、そのうち1つは、マリーの詩作品の1つと別の近づきがたいほどにモダンな詩作品 - しばしばジェフリー・ヒル(Geoffrey Hill)の「'Mercian Hymns'」 - を使うことである。どれが評判の高い同時代の詩人による本物の詩であるか否か、どれがモダンな詩を嘲笑する意図のもじりであるか否か、その理由が何であるか、彼らに訊ねて。そしてわたしは、彼らはいかさまを見分けて、当時の約50パーセントで正しいと思う...(I think it was the first summer I was at Harvard as a student, and I discovered a wonderful bookstore there where I could get modern poetry – which I'd never been able to lay my hands on very much until then – and they had the original edition of The Darkening Ecliptic with the Sidney Nolan cover. [...]I am obliged to give a final examination in my poetry writing course [at Brooklyn College, NY],which I'm always rather hard put to do, since we haven't really studied anything.The students have been writing poems of varying degrees of merit, and though I give them reading lists they tend to ignore them, after first demanding them.And the way the course is set up there is no way of examining them on their reading.And anyway they shouldn't have to pass an examination because they're poets who are writing poetry, and I don't like the idea of grading poems.So in order to pass the examination time I had to think of various subterfuges, and one of them is to use one of Malley's poems and another forbiddingly modern poem – frequently one of Geoffrey Hill's 'Mercian Hymns'.And asking them if they can guess which one is the real poem by a respected contemporary poet, and which one is a put-on intended to ridicule modern poetry, and what are their reasons.And I think they are right about fifty per cent of the time, identifying the fraud... [the] fraudulent poem.)[13]。
主要なオーストラリアのギャラリーによる2つの展示は、アーン・マリーに基づいている。1974年に南オーストラリアのアデレード・フェスティヴァル・エクシビションズ(Adelaide Festival Exhibitions)のアート・ギャラリー(Art Gallery)は、シドニー・ノーランの展示「"Ern Malley and Paradise Garden"」を含んでいた。2009年のハイデ近代美術館(Heide Museum of Modern Art)での展示「"Ern Malley: The Hoax and Beyond"」は、捏造の創始、受容および余波を徹底的に調査する最初の展示であった。 [14]
最後のアイロニーは、不朽の名声である:こんにちマリーは、マコーレーおよびスチュワートのいずれよりもよく知られ、広く読まれている。
アーン・マリーおよび捏造への言及[編集]
オーストラリアの歴史家ハンフリー・マックイーン(Humphrey McQueen)は、自分の1979年のオーストラリアのモダニズムの歴史を『The Black Swan of Trespass』と名づけてそれらの詩作品を暗にほのめかした。
いくつかのフィクション作品は、それら詩作品を、それらを書いた或るサード・パーティーに帰している。それらはそれから、マコーレーおよびスチュワートの手に落ちた。バーバラ・カー・ウィルソン(Barbara Ker Wilson)は、1977年に、『Overland』のなかに、短編小説「"Black Swan of Trespass"」を書き、そのなかで彼女にはダヴィド・デイビス(Davydd Davis)が居て、彼は詩作品を書きながらディラン・トマスを対蹠地の住人(antipodean)として示している。イアン・ケネディー・ウィリアムズ(Ian Kennedy Williams)による『Malarky Dry』は1990年に刊行され、うんざりさせる官僚ヘンリー・フィッツヒューバート=アイアランド(Henry Fitzhubert-Ireland)が詩作品を書いているいっぽうで、単車の整備の説明書を書いている病弱な味気ないアーンの話をしている[15]。さらに2つの最近のフィクションは、「本物の」("real")アーンを発明した:マーティン・エドモンド(Martin Edmond)の2007年のコレクション『Waimarino County & Other Excursions』に公表された「"Strangers in the House of the Mind"」[16]とデイヴィッド・マリー(David Malley)の『Beyond is Anything』[17][18]。
ジョアンナ・マリー=スミス(Joanna Murray-Smith)の劇『Angry Young Penguins』(1987年)は、これらの出来事に基づいている。
ピーター・ケアリーの2003年の長編小説『My Life as a Fake』は、アーン・マリー事件から霊感の一部を受けている。エリオット・パールマン(Elliot Perlman)は、2003年の長編小説『Seven Types of Ambiguity』のなかでアーン・マリー捏造事件の話を語っている。2005年に、ラリー・カッツ(Lally Katz)およびクリス・コーン(Chris Kohn)による、架空のアーン・マリーの現実生活に関するシュールレアリスト劇『The Black Swan of Trespass』が、メルボルンのモルトハウス劇場(Malthouse Theatre)で初演された。
21世紀の初めに、アーティスト ガリー・スヘッド(Garry Shead)は、アーンマリー捏造事件に基づく、受けが良い一連の絵画を制作した。
2013年の長編小説『Cairo』のなかで、『泣く女』(The Weeping Woman)のためのピカソの習作の1つの盗難のフィクション化版の成功ののち、登場人物の1人は、マリーの『Durer: Innsbruck, 1495』を引用する[19]。
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 Pearce, Barry. Sidney Nolan. Sydney: Art Gallery of New South Wales, 2007. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 1-74174-013-4, pp. 96–97
- ↑ 2.0 2.1 Lehman D 1998 The Ern Malley Poetry Hoax – Introduction in Jacket No 17
- ↑ 3.0 3.1 Malley, Ern (2017). The Darkening Ecliptic. Los Angeles: Green Integer. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 978-1-55713-439-4
- ↑ Heyward, 1993, p. xv.
- ↑ “Jacket 17 - FACT, June 25, 1944: Ern Malley, Poet of Debunk: full story from the two authors” (英語). jacketmagazine.com. 2017年1月28日閲覧。
- ↑ Heyward, Michael (June 2002). "The Ern Malley Affair", Jacket. Retrieved 22 March 2016.
- ↑ Documentation of Ethel's action and other sources can be viewed online at the Ern Malley Feature, Jacket (Sydney), No. 7, June 2002, ed. John Tranter
- ↑ Michael Heywood, The Ern Malley Affair, p.77
- ↑ “Ern Malley, the great poet, or the greatest hoax?”. The Sun (New South Wales, Australia) (2151): p. 1 (Supplement To The Sunday Sun And Guardian). (1944年6月18日) 2017年10月17日閲覧。
- ↑ McAuley, James; Stewart, Harold (1944年6月25日). “Ern Malley, Poet of Debunk: full story from the two authors”. Fact
- ↑ Wilde, William H.; Hooton, Joy; Andrews, Barry, eds (1994). “Ern Malley Hoax”. Oxford Companion to Australian Literature. Oxford University Press. p. 257. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9780195533811 .
- ↑ Pierce, Peter (2000年). “McAuley, James Phillip (1917–1976) Biographical Entry – Australian Dictionary of Biography Online”. Australian Dictionary of Biography. 2008年11月13日閲覧。
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- ↑ Rainey, David (2012年7月24日). “Ern Malley: The Hoax and Beyond”. aCOMMENT. 2014年7月24日閲覧。
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- ↑ Chris Womersley (2014). Cairo - page 249. Quercus Books. p. 249. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9781743530665 2018年2月28日閲覧。
- McQueen, H., The Black Swans of Trespass: The Emergence of Modernist Painting in Australia 1918–1944, Alternative Publishing, Sydney 1979
読書案内[編集]
- Michael Heyward, The Ern Malley Affair, University of Queensland Press, 1993[1](英語)
- David Lewis, "Ern Malley's Namesake", Quadrant, March 1995(英語)
- The Sons of Clovis: Ern Malley, Adoré Floupette and a Secret History of Australian Poetry. Brisbane: University of Queensland Press. (2011). モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 978-0-7022-3884-0(英語)
- Ern Malley, The Darkening Ecliptic, Los Angeles: Green Integer, 2017, モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 978-1-55713-439-4(英語)
外部リンク[編集]
- The Official Ern Malley website(英語)
- Image of Ethel Malley's letter to Max Harris, 28 October 1943(英語)
- Ern Malley's complete poems(英語)
- Ern Malley art by Australian artist – Garry Shead(英語)
- Review of "The Black Swan of Trespass"(英語)
- Ern Malley on aCOMMENT(英語)
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- ↑ “The Daily Poem: Durer: Innsbruck, 1495”. The Independent. (1993年8月12日) 2018年2月28日閲覧。