おにぎり
おにぎりまたは、おむすび、握り飯(にぎりめし)は、ご飯を三角、俵、円柱形などに成形し、海苔でつつんだ日本の食べ物。白米の中に梅干しや昆布、塩鮭など酸味、塩味のある具材を入れることが多い。
特徴[編集]
携行性に優れていて、手づかみで食べられることから、日本で古くから今日に至るまで携行食や弁当として重宝されている。元々は残り飯の保存や携行食として発達したが、その後は常食としてのおにぎりが主流となり、現代ではコンビニエンスストアやスーパーマーケットでも販売されている。携行する必要がない居酒屋や定食屋でも提供されるほど、日本の食文化に定着している。日本のコンビニエンスストアや外食・中食店の海外進出、日本滞在経験を持つ外国人の増加に伴い、世界各国でおにぎりが販売されるようになっている。
歴史[編集]
1987年(昭和62年)11月12日、能登半島の中央部にある眉丈山の丘陵部南東の尾根に所在する弥生時代の高地性環濠集落遺跡である杉谷チャノバタケ遺跡(所在地は石川県鹿島郡中能登町金丸。炭化米発見当時は鹿西町金丸)の弥生時代中期(約2000年前)層に属する竪穴建物の壁際から、握り飯と思われる炭化した米粒の塊が単独で出土した。この炭化米から人間の指によって握られた痕跡が発見されており、当初「最古のおにぎり」として報道された。その後の研究では、炊かれて握られたものというより、おそらく蒸された後に焼かれたものであり、言わば粽(ちまき)に近いものとされた。それ以降、この遺物は学術上「粽状炭化米塊(ちまきじょう たんかまい かい。表記揺れ:チマキ状炭化米塊)」と呼ばれている。
中能登町では「道の駅織姫の里なかのと」で粽状炭化米塊のレプリカを展示している。
北金目塚越遺跡出土[編集]
相模平野の中にある北金目台地(大根川と金目川に挟まれた台地)、現代行政区画上では神奈川県平塚市北金目にある、北金目塚越遺跡(※真田・北金目遺跡群に含まれる遺跡の一つ)の竪穴建物跡の弥生時代後期後半(3世紀)遺構からは[いつ?]、握り飯状に固まった炭化米が発見されている。平塚市の管理名称は「おにぎり状炭化米」。
ただし、握り飯の可能性もあるものの、表面についた籠の痕跡の形状から、握らず籠に入れただけの飯の塊が炭化したものとみるのが無難である。そもそも、弥生土器で現代と同様の精米した粘り気の強い温帯ジャポニカ(狭義のジャポニカ米)を現代同様の炊き干し法(※以降、炊飯方法の詳細は『飯#炊飯法』を参照のこと)で調理すると、土器の器壁に米粒が焦げてへばりつく。弥生土器では穀物の痕跡が確認できる焦げが残る例は少ないという。そして、現時点で想定されている弥生時代中期の炊飯方法は、米と一緒に加熱した水を、沸騰して吹きこぼれたら土器をすぐに傾けて捨て、さらに加熱して米の水分を飛ばした後、土器を横倒しにして上部の米にも火を通す湯取り法の一種である(※湯を捨てた直後は上部の米にはまだ芯が残っている)。この調理方法から見て弥生時代の米は粘り気が中間的な熱帯ジャポニカ(ジャバニカ米)などであったとされ(※もっと粘り気の少ないインディカ〈インディカ米〉では大量の湯で茹でて米粒を膨らませる方法をとる)、横浜市歴史博物館による実験の結果、こうして出来上がったご飯は粘り気が少なく、握り飯にするのは難しいとされる。ただし実験では熱い土器の安全な倒し方と白吹き跡の再現に謎が残った。なお、当時の甑(蒸し器)と思われていた土器は濾し器であったとされ、否定されている。
古代[編集]
北川表の上遺跡出土[編集]
北川表の上遺跡(きたがわおもてのうえ いせき)は、多摩丘陵の谷戸群に発する沖積平野を流れる鶴見川の支流・早渕川流域に所在した遺跡である(港北ニュータウン遺跡群の1つ)。現行行政区画は神奈川県横浜市都筑区早渕三丁目にあたり、現在「味の民芸 港北ニュータウン店」が所在する付近に分布していた。港北ニュータウンの造成に伴って1983年(昭和58年)から1987年(昭和62年)にかけて発掘調査が行われたあと消滅したが、1984年(昭和59年)の発掘調査で、古墳時代後期(5世紀後半- 6世紀後半、約1500-約1400年前)の竪穴建物跡から握り飯と見られる炭化米の最大長約15cmという大きな塊8個が弁当箱に収められた形で出土している。5軒の建物址を留めるこの集落は、弥生時代後期から古墳時代にかけて早渕川流域の拠点的集落として営まれていたと考えられている。