うどん
うどんは、日本の麺のひとつ。小麦粉を練って長く切った、ある程度の幅と太さを持つ。またはその料理である。饂飩とも書く。
細い物などは「冷麦」「素麺」と分けて称することが一般的ではあるが、乾麺に関して太さによる規定(後述)がある以外は厳密な規定はない。細い麺であっても「稲庭うどん」の例も存在し、厚みの薄い麺も基準を満たせば、乾麺については「きしめん、ひもかわ」も含まれる。
概要[編集]
手軽な庶民食、米飯と同様に主食として、また、祝い事に際して振る舞われる「ハレ」の食物として、古くから日本全国で食べられてきた。地域によって調理法や具材が異なる。
麺を大きな鍋で茹で上げる場合には、鍋の周囲に引っかけた状態で茹でられるよう、金属製あるいは竹製で深いザル状の「鉄砲ざる」(略して「テボ」「てぼざる」とも言われる)が用いられることも多い。
供する器には、丼(かけうどん)や、皿(うどん鉢など)、ざる(ざるうどんなど)、鍋(鍋焼きうどん)のほか、桶(うどん桶)、たらい(たらいうどん)なども用いられる。
専門店以外にも、蕎麦も並行して提供する店舗があるほか(立ち食いそば・うどん店など)、外食チェーン店などのメニューともなっている。また、麺のみの販売もスーパーマーケットなどで乾麺、茹で麺、生麺の状態で行われており、カップ麺としても多くのメーカーが多様な種類を販売している。価格帯も幅広い。
自動販売機による販売も行われており、カップ麺タイプ(パッケージがそのまま出てくるものや、湯を注ぎ完成したカップ麺が出てくるもの)だけでなく、完成された温かいものが出てくるタイプ(冷蔵麺を茹で→湯切り→温かいつゆを注ぐ→完成という工程を踏んでいる)も存在する。
歴史[編集]
発祥には諸説あり定かではないが、時代順に並べると以下のようになる。
- 遣唐使の一行が索麺の製法を、遣唐使船の寄港地であった肥前国 松浦郡 上五島の人々に真っ先に伝えた説。中国・浙江省岩坦地区に現存する「索麺」の製造方法が、五島うどんの製造方法に酷似しており、素麺発祥と謳っている三輪素麺に素麺を供給していた島原素麺などの製麺技術が古代から同地域に発達している事など地理的に考えても有力な説である。
- 奈良時代に遣唐使によって唐から渡来した小麦粉の餡入りの団子菓子「混飩(こんとん)」に起源を求める説。
- 青木正児の『饂飩の歴史』によれば、ワンタンに相当する中国語は「餛飩(コントン;中国語の発音ではhún tún)」と書き、またこれを「餫飩(ウントン、コントン)」とも書き、これが同じ読み方の「温飩(ウントン;中国の発音ではwēn tún)」という表記になり、これが「饂飩(ウドン;中国語の発音ではyún tún)」となったとする説。
- 平安時代に遣唐使として唐に渡った空海が饂飩を四国に伝えて讃岐うどんが誕生したという伝説。
- 平安時代の989年、一条天皇が春日大社へ詣でた際に「餺飥(現代ではほうとうと読むがはくたくと読む。神饌として奉納された)」を食べたという『小右記』の記述から、発祥は奈良とする説。また、それ以前の奈良時代までは索餅・はくたくのいずれも醤で調味しながら野菜とともに煮て現代のほうとうと同様に食べられていた。
- 仁治2年(1241年)に宋から帰国した円爾(聖一国師)が製粉の技術を持ち帰り、饂飩、蕎麦、饅頭などの粉物食文化を広めたとする説。承天寺(福岡市、円爾建立)境内には「饂飩蕎麦発祥之地」と記された石碑が建っている。また製粉機の詳細を記した古文書『水磨の図』が残されている。
- 中国大陸から渡来した切り麦が日本で独自に進化したものであるという説。
- 奥村彪生によれば、麺を加熱して付け汁で食するものは中国大陸にはなく、日本の平安時代の文献にあるコントンは肉の餡を小麦の皮で包んだもので、うどんとは別物であり、うどんを表現する表記の文献初出は南北朝時代の「ウトム」であるとする説。
- 南北朝時代末期の『庭訓往来』や『節用集』などに「饂飩」「うとん」の語が現れる。江戸時代は「うどん」と「うんどん」の語が並存し、浮世絵に描かれた看板などに「うんとん」と書いてあることがよくあり、明治初期の辞書『言海』には「うどんはうんどんの略」と記されている。
- 室町時代に記された『尺素往来』に「索麺は熱蒸し、截麦は冷濯い」という記述があり、截麦(切麦)が前身と考える説もあるが、その太さがより細く、冷やして食されていたことから、冷麦の原型とされている。切麦を温かくして食べる「温麦」と冷やして食べる「冷麦」は総じてうどんと呼ばれた。
いずれにせよ、江戸時代前期には現代の形のものが、全国的に普及して広く食べられるようになっていた。
- 備考
- 中国大陸では「乌冬面」、台湾などの繁体字文化圏では「烏龍麵」と表記するが、いずれも日本語の発音に基づく当て字であり、起源・由来とは関係がない。
- 江戸時代中期までは、薬味はコショウだった。江戸時代後期にトウガラシ栽培が軌道に乗るに連れ、その地位を奪い今日に至っている。
- 第二次世界大戦中の1940年9月、食堂などで提供されるうどんに公定価格が設定された。65匁以上の量で一杯10銭。以降、味の良し悪しは関係なく10銭で売られることとなったため、材料入手難と相まってうどんの劣化が進んだ。