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笹井観音堂

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歴史[編集]

新編武蔵風土記稿による笹井観音堂の縁起

(篠井村)観音堂

別當は即ち観音堂と稱す、又梅之坊とも云、瀧音山泊山寺と號す、本山修験、聖護院末廿八院の其一なり、【回國雑記】に観音寺と云る山伏の坊にて、四五日游覧しはべるとあれば、文明の頃は観音寺と號し、後泊山寺と寺號を改めし故は詳ならず、されど今専ら観音堂と稱號す、按るに観音堂の號は、初め役小角が山を開きし時、観音の靈像を安置せし故なるべし、泊山寺の號は、大僧正行尊此山に留り、中興せし故なることは前に辨ぜり、抑此観音堂の起立は、大同二年役小角が開きし靈場なりと云、別堂に安ずる本尊は、笠土より傳来せし十一面観音にて、立像長九寸なり、又別に同く観音の木坐像長一尺五寸許なるを作り、かの小像を此腹内に籠め置けり、縁起に謂ゆる此観音の靈像は、天竺須達長者閻浮檀金を以て鑄造せし由にて、村上天皇の御守護佛にして久しく朝廷に有しを、白河院より中興開山行尊へ賜はりし由云傳ふ、大僧正行尊は三井寺圓満院の祖なり、三條院の孫寥議基平の男にして、三井寺平等院に住し、保安四年又延暦寺座主に任じ、修験道名徳の人なりと云、【續世繼物語】に云、平等院の僧正行尊とて、三井寺におはせしが、名高き験者にておはせし少阿闍梨など申しける比より大峯葛城はさることにて、遠き國々山々など久しく行ひたまひて、白河院・鳥羽院打つづき護持僧にておはしきと、又不動の木像あり、行尊瀧ケ谷に居りし頃、安置せし像なりと云、又辨天の木像あり、以上の安置佛は、皆本堂の西の一宇に東向せり、本堂に安ずる本尊は、神變大菩薩木の坐像にて長一尺八寸、脇士の五鬼、是を鬼助・鬼彦・鬼一・鬼丈・鬼熊と云、名木の立像にて、長一尺ばかり、抑此寺は役小角に剏建し、夫より第廿一世を經て、大僧正行尊に中興し、法嗣行阿寺記を撰す、その略に云、(縁起中略)、此行阿は久安六年十一月二日寂せし僧なれば、縁起の舊きこと知るべし、相傳ふ元弘年中新田左中将入間川邊に張陣のとき、この境内にありて、晝夜となく篝火を焚しと、今も猶此邊の童謡にかんなんだうで火かもゆるとらもいつてあたるべいと謡ふは、當時の遺風にして土人鄙野の方言なり、寒気のときなれば、観音堂のかがり火に、我も往てあたらんといへる意なり、又堂の前邊田疇の間に井あり、深さ一丈餘、左中将が陣中にうがち用ひしものなりと云ふ、又退陣の後観音堂主僧へ胎らるゝ謝帖、今其本文を失ふといへども、今の観音堂主良信が口づから傳るものを釆録す、其辭に云ふ、先頃は久々其院之山内に罷在、世話に相成辱候、追面加及沙汰候と云々、小田原北條氏全盛の日には、観音堂領三千五百石、相州大住郡にて食みしが、御入國の後天正十九年十一月、堂領十石の御朱印を賜はれり。

薬醫門。古ありしと云傳ふ、今は廢せり。

本堂。本尊神變菩薩の説、前に辨ぜり。

庫裏。

観音堂。観音の説、前に辨ず、本堂の方に東面して在。

寺寶

刀二振。大刀は無銘、小刀は藤原重行の銘あり、各拵付。

鎗一筋。下坂の作なり、中身一尺五寸、柄六尺七寸。

薙刀一振。無銘中身一尺二寸、柄六尺一寸。

鞍一口。塗黒にて、紋は丸の内に立葵海なし鞍なり、以上の四品は御打入の時御迎として罷出、警固に用ひしものと云、この外のものは今失せり。

北條氏照文書二通。その分左のごとし。


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