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浅利弘三

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Lua エラー package.lua 内、80 行目: module 'Module:Message box/configuration' not found 浅利 弘三(あさり こうぞう、1932年5月1日 - 1990年11月19日)は、日本の曲木家具(木を蒸して柔らかくしてから鉄の型に合わせて曲げて作る)デザイナー。日本インテリアデザイナー協会会員No.1。

秋田県鹿角市尾去沢出身。秋田県立鹿角工業高等学校(現十和田高等学校)を卒業後、秋田木工株式会社(秋田県湯沢市)に入社し製造に携わった後同社のデザイナーとなった。

秋田木工(1910年;明治43年設立)は、ドイツ人デザイナー・実業家のミヒャエル・トーネット考案による曲木技術を導入し、「木が木で立っていた時よりも美しく」を信条とした家具を製造している。さらに以下の記述は秋田木工の特徴を如実に物語っている:「曲木技術は木の繊維に逆らわず、その流れに基づき、生かす。例えば、ダイニングチェアの背もたれは、1本の長い木から作られる。これは美しさだけでなく、構造・強度面でも意味がある。仮に、形状だけにこだわり、木材から曲面をくり抜いて作ると、木の繊維は寸断されてしまう。これでは 曲木ほどの強度を保てず、数年ののちに疲労し、木の節や繊維の切れ目から破断してしまうこともある。木の性質を熟知し、幾多の課題を乗り越えてきた秋田木工だからこそ、伝統工法に自信と誇りを持ち、今なおその可能性を追い求めている。」(公益法人あきた企業活性化センター)[1]

1947年秋田木工に昭和天皇が巡行され、当時社長であった長崎源之助が案内している。

浅利弘三はジャパニーズモダンを牽引した剣持勇豊口克平に師事し多くのデザイナーと親交した。秋田木工製剣持勇デザインのスタッキングスツールは、スマートで積み重ねができることから全国的に普及した。

浅利弘三の椅子は今も生活の身近なところで使われている。1959年(昭和34年)長男誕生の折にちゃぶ台の高さにあわせた子供用の椅子をデザインした。2本の円柱形木材が床設置面を形成しているため畳に座っても跡がつきにくい。当時の生活スタイルが考慮されている。ダイニングテーブルの高さにあわせた子供用の椅子もありファミリーレストランなどでよくみかける。

1969年日本インテリアデザイナー協会欧州視察/オリエント急行にて。手にしているオリンパスペンで家具だけでなくウインドウディスプレイなど好奇心の趣くまま撮影した。フィルムは35ミリのハーフサイズのため通常の2倍の数の写真を撮ることができる。カラースライドを持ち帰った浅利は帰国後数度に渡り幻燈映写会を開いた。

浅利弘三は曲木の技術的側面にも精通し専門書[2]や辞書[3]で解説している。1969年日本インテリアデザイナー協会の派遣によりイタリア、フランス、ベルギー、デンマーク、スウェーデンなど欧州を視察した。ロッキングチェアNo.1は「日本のイス100展」に選出されている(国立研究開発法人産業技術総合研究所東北センター記録 51番の作品)。背骨S字曲線に沿った局面は座る人に優しく、見る人にナイーブでありながらしなやかな印象を与える。

秋田木工は剣持勇とともにジャパニーズモダンの礎を創った柳宗理の作品も製造した。秋田木工は宮家に納めるほどの優美な家具だけでなく、生活に密着した家具も多く製造した。そのような無名の家具たちは柳宗理の父柳宗悦が見出した「民蓺」の味わいを感じさせる。

次男の浅利博もインテリアデザイナーであり、浅利弘三の盟友の川上信二に師事した。

浅利弘三は、曲木の技術的側面のみならず椅子に座った時に手が触れる「木の感触」を重視した。

著作[編集]

  1. 「家具の辞典」編集 剣持仁、 川上信二、 垂見健三、藤盛啓治 (1986/7/1) 朝倉書店
  2. 「インテリア事典 1 家具篇」室内 1979年7月号臨時増刊 通巻401号 工作社

引用[編集]


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