木暮安太郎
Lua エラー package.lua 内、80 行目: module 'Module:Message box/configuration' not found 木暮 安太郎(きぐれ やすたろう[1]、1911年〈明治44年〉6月14日 - 2008年〈平成20年〉10月10日[2])は、群馬県の郷土史家(群馬歴史散歩の会幹事、駒形支部[2])。
概要[編集]
1911年(明治44年)6月14日、当時の勢多郡木瀬村(現・前橋市駒形町)に生まれ、十代の頃から農業に従事。戦時中は1945年(昭和20年)8月17日に入隊する予定で召集令状を受け取っていたが、終戦の日を迎えたため出征を免れる。戦後は群馬歴史散歩の会に所属し、物知りで世間の広い人物として知られる。1991年(平成3年)、前橋市永明公民館世代間交流事業の一環で刊行された『竹橋の子ぎつね』では、地元に伝わる民話・伝承の語り部の一人を務めた[3]。2008年(平成20年)10月10日死去[2]。
経歴[編集]
明治44年6月14日、ヤマタマル(八田○を縦に書いた屋号)木暮家の9代目当主・木暮國太郎と妻・志まの子供で、7人兄弟の長男として生まれる(弟4人、妹2人)。駒形尋常高等小学校を卒業後、木瀬村消防団、警防団に所属した。昭和9年に木瀬村青年団にて役員を務めていたことが写真により残っている。昭和10年、佐波郡上陽村大字山王(現・前橋市山王町)の宮下茂三郎の四女、そうと結婚。その後五男一女をもうける。戦時中は、高崎連隊に所属、ただし現地へは行っていない[要出典]。2度目の召集令状は昭和20年7月に来て、8月17日が入隊日だったため、終戦により召集を免れた[1]。
戦時中、食糧不足に悩む中「丸山式甘藷栽培法」なるものでサツマイモを栽培し、駒形町の町民を救ったと言われている。昭和15年10月20日、長男・正信が急逝。戦後は家業の農業に従事した。昭和33年12月20日、母・志まが死去。昭和48年7月22日、父・國太郎が死去。晩年は駒形町自治会役員、土地改良区総務委員長、駒形神社氏子総代責任役員、等を歴任。平成5年5月10日、妻・そうが死去。平成20年10月10日午前0時50分、伊勢崎市民病院にて死去。97歳没。戒名は壽楽院時豊安祥居士[要出典]。葬儀は前橋市内のこまがた聖苑にて執り行われた[4]。墓所は前橋市駒形町眞楽寺(菩提寺は伊勢崎市稲荷町圓福寺)[要出典]。
木暮家について[編集]
Lua エラー package.lua 内、80 行目: module 'Module:Message box/configuration' not found ヤマタマル(八田○を縦に書いた屋号)木暮家は正徳年間に初代 戒名・道春信士が分家し、以来300年以上家系が続いている。文献、位牌、墓石等を調査したところ、代々「丈吉」の名を襲名していたことがわかった。現在は木暮安太郎氏の二男(長男は夭逝)が11代目当主として家督を継いでいる。
伝承民話・逸話[編集]
- 「戦争で招集され連隊で訓練を受けている時、上官より出身地はどこだ、と言われた。安太郎は『群馬県勢多郡木瀬村駒形町です!』と答えた。すると『村の中に町があるか!バカもの!』と怒られたそうだ。」[要出典]
- 「叔父が関東大震災の時、東京へ手伝いに行っていた。その為父・國太郎[要出典]が育てた芋を東京へ送った。すると電報が叔父からやってきて『けつがうなるいもありがたう』とあり國太郎[要出典]は『いくら芋だからってけつが唸るとまで言わなくてもいいだろう』と言ったそうだ。しかし安太郎が良く電報を読むと『けっかうなるいもありがたう(結構なる芋有難う)』と書いてあったそうな。」[5]
著書[編集]
- 湯沢きよ、木暮安太郎『竹橋の子ぎつね』前橋市永明公民館、前橋市永明公民館、1991年。
- 木暮安太郎「私の見た農業の移り変わり」『群馬歴史散歩』平成14年5月号第172号、群馬歴史散歩の会、2002年。
- CD『昔話ふるさとへの旅 群馬』キングレコード、2005年 - 語り(市原悦子・冨沢ちよ・相京やへと共同)
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 湯沢きよ & 木暮安太郎 (1991), 話者プロフィール.
- ↑ 2.0 2.1 2.2 群馬歴史散歩の会 (2009), p. 64.
- ↑ 湯沢きよ & 木暮安太郎 (1991), 巻頭・巻末.
- ↑ 上毛新聞 (上毛新聞社). (2008年10月11日)
- ↑ 湯沢きよ & 木暮安太郎 (1991), pp. 73-74.
参考文献[編集]
- 『群馬歴史散歩』平成21年1月号第207号、群馬歴史散歩の会、2009年、 64頁。
外部リンク[編集]
- 木暮安太郎 - まいり
- JA前橋市あぐりーとーく (PDF)
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