You can edit almost every page by Creating an account. Otherwise, see the FAQ.

巖邨神社

提供:EverybodyWiki Bios & Wiki
移動先:案内検索


Lua エラー package.lua 内、80 行目: module 'Module:Message box/configuration' not found

巖邨神社(岩村神社)
所在地 岐阜県恵那市岩村町
主祭神 一条信能
例祭 8月第1土曜日・日曜日
テンプレートを表示

巖邨神社または岩村神社(いわむらじんじゃ)は、岐阜県恵那市岩村町にある公卿一条信能を祭神とする神社

祭神[編集]

一条信能 (建久元年(1190年) - 承久3年7月5日1221年7月25日)は、鎌倉時代初期の公卿藤原北家頼宗流、権中納言一条能保の次男。母は江口の遊女慈氏。子に忠俊がいる。異母兄弟に高能実雅尊長らがある。官位は従三位参議建久4年(1193年)叙爵。後鳥羽上皇近臣の一人として仕え、建暦元年(1211年)に左近衛中将となり、建保7年(1219年)に蔵人頭に任じられて、承久2年(1220年)に参議に至る。後鳥羽上皇が源実朝暗殺事件後も鎌倉に止まる信能の解官を行うという風説が流れ、信能が北条政子に帰京すべきか否かを相談している。[1]。だが、帰京後には上皇の側近の地位に復帰し、鎌倉幕府打倒の謀議に参加。承久3年(1221年)の承久の乱においては京方の軍勢を率いて、兄弟の尊長とともに芋洗方面の守備に就いて幕府方を防いだ。敗戦後、京へ戻ったが、6月24日に武家からの申請で京都守護に捕縛された。京で直ぐに処刑されるところを、北条義時からの旨で遠山景朝に身柄を預けられ鎌倉へ護送される途中、7月5日に遠山景朝の領地である美濃国遠山荘の岩村に到着。8月4日に斬首される際に、「種々法門皆解脱、無過念仏往西方。上尽一形至十念。三念五念仏来迎。乃至一念無疑心。」と三度繰り返して遂に斬首されたという。

神社の歴史[編集]

岐阜県恵那市岩村町には『一条信能終焉の地』の史跡があり、厳邨神社は、信能の墓を弔うために建てられた若宮社という祠を発祥とする。明治13年(1880年)に明治天皇山梨三重京都への御巡幸の際に中山道で近くを通った際に片岡侍従を岩村へ派遣して一条信能の墓を視察させた。同日片岡侍従は多治見行在所に至り複奏した。これにより三條實美より特旨をもって岐阜県に対し以下の文書と祭粢料として金拾圓を御下賜あらせられた。

  • 岐阜県 「故一條宰相中将信能 承久ノ役王事ニ勤労シ 遂ニ身ヲ以テ国ニ殉ズ 其忠烈深ク 御追感被為在候 美濃国恵那郡岩村ノ内字相原ハ 墳墓ノ在ル所ニシテ 近ク御巡幸ノ途ニ接ス 因テ特旨ヲ以テ祭粢料金拾圓 下賜候條此旨相達候事」 明治十三年六月二十九日  太政大臣 三條實美
  • 明治14年(1881年)それまで信能を祀っていた若宮社または若宮八幡と呼ばれていたが厳邨神社に改名された。

参考文献[編集]

  • 恵那郡史
  • 岩村町史 294~298P
  • 女城主の里 いわむら (いわむら町まちづくり実行委員会 平成5年) 52P

関連項目[編集]


This article "巖邨神社" is from Wikipedia. The list of its authors can be seen in its historical and/or the page Edithistory:巖邨神社.

  1. 吾妻鏡』承久元年閏2月29日条


Read or create/edit this page in another language[編集]