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丸地博

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丸地博(Maruchi hiroshi)

 日本建築学会会員の建築家。愛知県名古屋松城町の出身で1954年3月の生まれ。父は葆(しげるで出生地は千葉県君津郡秋元本植畑726番地だが「母まさ」の私生児として戸籍に記されている。(曽祖父は「千吉」・曾祖母は「まさ」)。葆の出出身地は千吉の戸籍地である豊橋市大字東田で現在の豊橋市。母はテイ(旧姓は四方(しかた)で、2016年2月8日99歳で天寿を全うした。母は京都市上京区裏門通り下長者町の出身である。 父「葆」は、ビルマに陸軍上等兵として従軍し終戦後に帰還する(何時どのような状況で戻ったかは定かではない)。帰還後に3人の子供を設けたが、5人兄弟の下から博(次男)・京子(三女)・繁晴(長男)である。長女・初枝、次女・光子その後、中部鋼鈑に勤めていたが、博が名古屋市立笠寺小学校に入学した直後の1961年4月29日、父:葆は公通事故に遭い、46歳の若さで他界する。博が6歳の時であった。

父、葆には蒲郡に住む弟が居たが現在はその子供たちと親戚付き合いが有るのみ。母は京都府葛野郡朱雀野まのれで藤井父:四方豊次郎、母:四方か志(しま)満。して旅芸人の一座に貰われていくことになる。この為一時期、母は実家と疎遠に成っていたが、結婚後に京都の兄、東(義兄 荒木文造)京の姉と再(原田)リンする。兄は四方弟姉妹と木荒嘉の木姉ツ、である。 恵まれない幼少期を過ごした母は生前「私の人生は朝ドラ」に向いているといって言たのを良く聴いた。

父が他界したとき、母は5人の子供を抱えており「将来不安」に怯えていたことは想像に値する。感受性の豊かな博は笠寺小学校3年から本城中学校を卒業するまでの6年間、地元の福井新聞店で朝夕に新聞配達を行い、家計を助けた。母テイも、病院の下働きや、鉄工所での油まみれに成って部品を洗い子供たちを育てた。新聞配達をしている時に見た、母が一生懸命に働くこの姿は、後の博の「人生観」と「働く姿勢」に大きく影響していく事となる。高校受験では母が無理をして勧めてくれた、緑ヶ丘商業高校(緑区)商業科を受験するも不合格となる。これは母に金銭的な負担を掛けたくなかった博が答案用紙に名前を書かなかった結果である。

博は五人兄弟の末っ子だがこの時、父のいない家の貧しを充分に理解しており、働くことを既に決意していたからでもある。高校は働きながら学べる夜学を選択し、星崎にある「名南工業高等学校の機械科、定時制」に進学しする。

高校生時代の株式会社名南製作所(ごう製造機械開発メーカーはん)で働き、家計を助けた。夜に学ぶ生活を四年間続けるがこの四年間が博の原点とも言える。この会社は八十名程度の地元の町工場であるが、東京大学からも社員が入社する、業界屈指の企業で、りその開発力に於いは「界と向き合うどの機械の開発企業であだからである。自由な社風の中、f = ma を起点としたニュートン力学を学び、物事の全ての事象に「”なぜ”を重ね合わせ」多くの知識を蓄えていった。合板機械の開発や設計に必要な鋳物作製や金属加工・組み立てを学びながら、この世には無いものを開発(無芯ロータリーレース開発に従事)して行く、と気概仕事へのと情熱を身に就け、同時に人間的には朝夕の新聞配達をしている時に受けた、周囲の暖かい応援が心に浸透し、「優く」「情緒豊かで」「感受性」に溢れた育ち方をしていく。

定時制の高校生活では成績は常にトップで毎年学年代表を務めていた。卒業後の進路は名城大学への進学を学費が払えず断念。京北区にある建築設計専門学校、中央工学校・建築設計科に進学する。これは当時の政治のトップにいた田中角栄氏が国家資格の一級建築士制度を制定し、自らがその壱番の番号と成っていた事や氏が大学を出ていないことに感化されたことによる。また当時「大学ランド」(遊園地)と化していた大学よりも、名前だけの大学を出なくても資格を取れば社会でのハンデは無いと考えたことや、母の為に家を建ててあげたいと考えたこと。そして何より「自立した生活を送る為の学費や生活費の負担」を考えてのことである。又名南製作所での4年間で八十万円ほどの貯金していたが四入学金や間の大学の費用までは賄えなかったからであもる。

この時代の学友は「水留穣治・丸山猛・丸岡賢久(不明)」で今でも交流がある。東京での生活は赤羽駅東口駅前にある喫茶「梅ノ木本店」(溝畑春樹店長故人)でアルイトをして生活費に充てた。初めての東京生活は北区志茂下四丁目(北本通そば)の木賃アパートの二階の3畳一間(炊事場・トイレは共同)で家賃は5千であった。1年後赤羽2丁目の青木さん宅の二階4畳半にリヤカーで引っ越した。当時名古屋からの仕送りは無かったが「憧れの武藤のドラフター(20万程度)や建築家全集(28万)」を購入し貯金までしていた。これはお金を使う時間が無かったから最もな事である。

当時のコーヒー代金は確か170円程度だったと思うが、バイト代金は340円/時間であった。この店の賄いで出されるドリンク(何でも)とハムトースト(好きなだけ)を食べさせて頂いたり、赤羽会館の90円カレーや、スズラン通り奥にある定食屋で150円のサンマ定食、カレーショップ「リンリン」(現在も二代目リンリンとして残っている)などで済ませ、無駄なお金は使わなかった。この梅ノ木で知り合ったのが「妻のみどり(因島出身の旧姓・笹垣)」である。バイト生活は2年間、その後建築設計事務所に勤めることになるが、その頃には大井町のゼームス坂の下にある2DKの木賃アパートの2階で同棲を始めていた。その後23歳の3月3日(1977/3/3(木))に入籍結婚し28歳(1981年4月)の時、長女志織(しおり)が誕生したことを機に、株式会社類設計室(類グループ)に転職し、2年後には構造設計者から営業担当になるように時の上司(阿部副社長)から懇願される。このことが又、人生を大きく変えていくことに成る。

建築設計業界では各社の先輩営業マンたちが類設計室は異端だとの認識でいたが徐々に融和させて行った。入社7年半後の秋、株式会社東急設計コンサルタントに転職するが、これは類設計で阿部副社長に代わり新しく上司となった八木(故人)氏と考え方が合わなかったからである。この時代の作品は「一山いけすの構造設計」(千葉県銚子市)がある。

東急設計コンサルタント(東急グループ)は、グループ会社の東急不動産の担当や官公庁の営業担当を担い、年間4億円の設計料の受注を賄っていた。丸地が入社するまで東急設計は官公庁の仕事には目を向けていなかったが、経営の安定の為にはバランスが必要と、その必要性を説き参入していったものである。結局13年半と言う年月をこの会社で過ごしたが長年の上司(松本氏)が定年を向かえ、代わりに上司に成った竹島氏とまったく意見が合わず、また退職することに成る。上司が大きな「魅力や能力」を持ち、大きな視点で自由に仕事をさせてくれれば、博の生み出す成果は他者を圧倒する力を出す。しかし管理志向だけで能力の無い上司が就くと上手く行かない。この性格はいくつに成って変わらないものである

東急設計には34歳、課長待遇で入社したが部長職昇進には間を置かれる。ある時、成果を出しても通常より遅い昇進には理由が有ると、松本取締役から話があった。それは大東急グループの部長職は大学を卒業していないと出世にはハンデに成るというもの。このとが博の心に火を点けることに成る。博は名南製作所で身に就けた考え方を大切にし、人間の価値や能力は学歴で決まるものではないとのえで生きて来た。しかし社会(世の中が)それを必要とするのなら、学士の称号を取ってやろうとと半年間の土日に地元の図書館に通い猛勉強し、会社から通える大学を選択して「法政・専修・国学院を」受験し、すべて合格する。そして法政大学の経済学部経済学科に進学する。時に46歳、西暦2000年の4月のことである。

4年間の成績は「S・A」が殆どで真剣に学業に励み修める事に成るが、最も興味を持ったのが文化人類学(人間観察学)である。人間(ホモ・サピエンス)の生物的な行動や人間の想い(かんじょう)を観察するのは実に楽しいものであり「生物として行動」を、社会と言う仮初めの空間にダブらせながら隠し、本当の顔と生きるための顔い使い分ける人間の滑評価分析をしながら観察し楽しんだものである。又、生命進化は多くの偶然と、生きる為(適者生存)に必要なものを細胞レベルから適合させて来た。更には様々なホルモン(アドレナリン・ノルアドレナリン・ドーパミン・ステロイド・セレトニン)を置かれた状況により分泌し、身を守る準備をしてきた。これらの進化は現在のホモサピエンスにも同様に起こっており、機械化やロボット化、AI化は生命としての基本的能力を奪うものであると考え、ホモ(ヒト)属のサピエンス(賢い)が今後1000年を超えて地球上の覇者としているか大きな疑問を持っている。

法政大学の経済学部に入学し2004年3月25日、49歳で卒業(武道館)した。その際、1263名(一部と二部合計)の法政大学経済学部生の首席(トップ)で卒業したが、恐らく世界でも最高年齢での首席卒業であると考え、数年後ギネスブックに申請するが、ギネスからの回答では、「この分野では扱いが無くギネス記録には現状ではそぐわない、しかし今後この様な事案も対称に成った場合には再度調査を行う」との回答が有った。

卒業時には東急設計は退職し既に(株)アールアイエーに勤務していた。時の上司「塩津幸雄」氏は人情味溢れる最高の上司であったが、RIAの人事抗争でその人格は生かされないまま63歳の若さで顧問に退いた。この時代の作品としては寿泉堂病院(郡山駅前再開発)、東一センタービル(仙台)、宮若市宮若西小学校(宮若市)、広島駅前Bブロック再開発などが有る。この後、博は60歳を期にRIAを退社し、株式会社翔設計に副社長として迎えられ、5年間で建築設計部門の業績をV時で回復(4年間すべて増収増益)させてから、RIAの退職時と同様に若手にに道を譲る。この時代の作品は埼玉県本庄市の「本庄市保健センター」や朝霞市の児童館「あおぞら」、「羽村子供動物公園」(東京都羽村市)などが有る。

丸地家の過去の戸籍には安政元年(1854年)の「丸地千吉」から記載があるが、養子縁組がとても多く先祖を遡ってみたが中央区役所(京橋区役所)で止まった。それは関東大震災以前の戸籍は消失したとの事であった。時代背景からは当たり前のことあろうが先祖を遡るのは難しい。母方の先祖は京都太秦の四方家で襖絵師をしていたと聞いているが、更に遡ると祖母;志満は藤井家に養女として富岡家(藤井竜太郎)に入っている

四方豊次郎の母は大角すえと考えられ、その先祖は父:大角太兵衛⇒祖父大角善證⇒大角隼人(宇多源氏)の嫡流でに繋がり「59代:宇多天皇」)52代:嵯峨天皇(786年)皇后:橘嘉智子(たちばなのかちこ)に遡る事が出来る。


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