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ロイヤル・チャーター

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ロイヤル・チャーター
基本情報
クラス 蒸気クリッパー
船籍 イギリスの旗 イギリス
所有者 リヴァプール・アンド・オーストラリアン・スティームシップ・ナヴィゲーション・カンパニー(Liverpool & Australian Steamship Navigation Company)
建造所 イギリスウェールズ、ディーサイド(Deeside)、リヴァー・ディー(River Dee)、サンディクロフト・アイアンワークス(Sandycroft Ironworks)
経歴
進水 1855年
最後 1859年10月25日遭難
要目
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海難事故の現場

ロイヤル・チャーター: Royal Charter)は、1859年10月26日(水曜日)にイギリスウェールズ北西岸に接するアングルシー島の北東岸のデュラス湾(Dulas Bay)のポース・アラース(Porth Alerth)の沖合で難破した蒸気クリッパーである。正確な死者数は完璧な船客名簿が難破で失われたためはっきりしないが、不完全な名簿(出発直前に乗船した人々をふくむ)は、オーストラリアビクトリア州のヴィクトリアン・アーカイヴズ・センター(Victorian Archives Centre)に保有されている。約450人の生命が奪われた[1]が、これはウェールズ沿岸の難船事故の最大の犠牲者数である。これはロイヤル・チャーターの暴風雨(Royal Charter Storm)のために難破した約200隻の船のなかで最も有名な犠牲である。

『ロイヤルチャーター』は、リヴァー・ディー(River Dee)のサンディクロフト・アイアンワークス(Sandycroft Ironworks)で建造され、1855年に進水した。これは新型船で、クリッパー船とおなじふうに建造された2719トンの鉄製船体の蒸気クリッパーであり、風のないときに使用される補助蒸気エンジンをそなえていた。

船はリヴァプールからオーストラリアまでの航路で、船荷のための場所はあるがおもに客船として使用された。1等に贅沢な設備をそなえた乗客600人までの場所があった。オーストラリアまでケープ・ホーン経由で60日未満で進むことができて、たいへん速い船と見なされた。

難船事故[編集]

1859年10月後半に『ロイヤル・チャーター』はメルボルンからリヴァプールまでの帰航路にあった。総数約371人の乗客(約112人の乗組員とともに)は多くの金鉱者をふくみ、そのなかにはオーストラリアの鉱区でよい鉱脈を掘り当て大量の金を身につけて運んでいたひとびともいた。金の委託貨物もまた船荷として運ばれつつあった。10月25日にアングルシー島北西端に着いたとき気圧は下がりつつあり、船長の大佐トマス・タイラー(master, Captain Thomas Taylor)は、ホーリーヘッド港(Holyhead harbour)に避難するように助言されたと一部乗客によってのちに主張されたが、ただし確認されなかった。しかし彼は、リヴァプールまで航行しつづける決心であった。

ポイント・ライナス(Point Lynas)沖合で『ロイヤル・チャーター』は水先案内人を乗せようとしたが、風はいまやビューフォート風力階級10につよまり、すばやく荒れだしつつある海はそれを不可能にした。10月25日/26日の夜のあいだに風は「ロイヤル・チャーター疾強風」("Royal Charter gale")として知られるようになったビューフォート風力階級12の颶風(ぐふう)につよまった。風がつよまるにつれて風向は西から北西に、そして北北西にかわり船をアングルシー島北西岸にむかわせた。午後11時に船は投錨したが、26日の午前1時30分にポート・アンカー・チェーンが切れ、それにつづいて1時間後にスターボード・チェーンが切れた。風の抗力(drag)を減じるために複数のマストを切ったにもかかわらず、『ロイヤル・チャーター』は、蒸気エンジンが颶風にさからって前進することができずに海岸近くにむかった。船はさいしょ砂岸に座礁したが、26日の早朝に満ち潮が船をアングルシー島北岸のポース・アラースのモイルブレのすぐ北の岩々に乗り上げさせた。船は、時速100マイルを超える風によってホイップ・アップされた巨大な波によって岩々にたたきつけられて、すばやくばらばらになった。

『ロイヤル・チャーター』は、モイルブレ(Moelfre)近くのこれらの岩々にばらばらになった

乗組員のひとりであるマルティーズ(Maltese)は、 Guzi Ruggier として生まれ、ジョセフ・ロジャース(Joseph Rogers)としても知られるが、ラインをもって浜に向かって泳ぎ少人数を救うことができたし、またほかの少人数は打ち寄せる波のなかを骨折って進み浜に着くことができた。乗客および乗組員の大部分、あわせて450人超が死亡した。その大部分はおぼれたというよりもむしろ波によって岩々にたたきつけられて死亡した。身につけている金のベルトの重さのためにおぼれたひとびともいると言われた。乗客21人および乗組員18人という生存者は全員男で、女と子供はひとりも救助されなかった。1859年8月にメルボルンを出発した320人の乗客の名前の一覧表はヴィクトリア、公文書館(the Public Records Office)からオンラインで入手し得る:「"Index to Outward Passengers to Interstate, UK and Foreign Ports, 1852–1901"」

大量の金はポース・アラースの浜に投げ上げられていたと言われ、数家族が一夜にして裕福になった。船荷として運ばれた金地金には32万2000ドルの保険がかけられたが、乗客の多くは身につけるか、そうでなければ船の貴重品室に預けてかなりの量の金を持っていたから、船上の金の全価値は、もっと高かったにちがいない。

聖ガスゴ教会(St Gallgo's Church) 140人の犠牲者が埋葬された墓を示す 白黒印刷のリトグラフ 1860年ころ

海から回収された遺体の多くは、ちかくのスランアスゴ(Llanallgo)の聖ガスゴ教会(St Gallgo's Church)に埋葬され、そこではまだ複数の墓と記念物1つが見られる[2]。また船がぶつかった岩々の上の崖にも記念物があり、それはアングルシー・コースタル・パス(Anglesey Coastal Path)に接している。

ロイヤル・チャーターの記念物 聖ガスゴ教会 スランアスゴ

災害のとき、地元の住民らが難破船の戦利品から裕福になっている、あるいは犠牲者らの悲しんでいる親戚らを利用して私利を図っているという主張があり、救出に従っていた「モイルブレ28」("Moelfre Twenty-Eight")は、タイムズ宛てに手紙を送り、記録を訂正したり非難に反駁したりしようとした。英語を話す報道代表が情報を収集しようとした際に言語障壁にあたったという事実のみがさらなる誤解をまねくことになった。

ほとんどきっかり1世紀後(いちにちもたがわず)の1959年10月に、『ヒンドリー』(Hindlea)という別の船が、べつの疾強風をうけてほとんどおなじ海域で岩々にぶつかった。今度は結果がことなって、リチャード・エヴァンス(Richard Evans)を艇長とするモイルブレの救命艇は乗組員の救出に成功した。

BBCのTVショー『Who Do You Think You Are?』の或るエピソードのあいだ、庭師モンティ・ドン(Monty Don)は、自身の高祖父チャールズ・ヴェア・ホッジ師(Reverend Charles Vere Hodge)が『ロイヤル・チャーター』で死亡したことを発見した[3]

余波[編集]

災害の余波は、チャールズ・ディケンズによって『商用ぬきの旅行者』(The Uncommercial Traveller)に記述されている。ディケンズは現場を訪れ、スランアスゴのスティーヴン・ルース・ヒューズ師(the Rev. Stephen Roose Hughes)と話をしたが、彼のその遺体を発見したり身元を特定したりする努力のために、その後まもなくの早すぎる死につながった。ディケンズはつぎのように疾強風の力をいきいきとえがいている:

「船をこわしたときの海の力はものすごかったから、それは金の大きなインゴットをうちのばして、頑丈で重そうな一点のむくの鉄製品にした」("So tremendous had the force of the sea been when it broke the ship, that it had beaten one great ingot of gold, deep into a strong and heavy piece of her solid iron-work")
そのなかに、金がそのまえに襲ってきていたソヴリン金貨が数枚、見つかった、あたかもそこに居るように強いられたとき鉄が液体であるかのように("in which also several loose sovereigns that the ingot had swept in before it, had been found, as firmly embedded as though the iron had been liquid when they were forced there")

ディケンズの友人で画家のヘンリー・ネルソン・オニール(Henry Nelson O'Neil)は、この事象にもとづいた、身体にロープをまいて海に跳び込もうとしているロジャース(Rogers)を描いている絵『志願兵』(A Volunteer)(1860年)を展示した。

災害は、気象庁(Meteorological Office)の発展に効果があったが、これはキャプテンロバート・フィッツロイがその官庁を託されており、同じような悲劇を防ぐために最初の警告サービスを導入したからである。「ロイヤル・チャーター」("Royal Charter")の嵐および風の強さはしばしばほかの国家的な災害における判断の尺度としてもちいられた - テイ橋が1878年に崩落したとき、王立天文台長はしばしば報告のなかでロイヤル・チャーターの嵐に言及した。

難破物は災害のすぐあとにヴィクトリア朝の人らによって引き揚げられた。残存物はこんにち、浜から5メートル以内にひとつづきの鉄の隔壁、プレート、肋材として、横たわっているが、それらは年々移動する砂によっておおわれたりむきだしにされたりしている。ソヴリン金貨、拳銃、めがね、その他の私物が、多年にわたって偶然スキューバダイバーによって見つかってきた[4]。複数のチームが、2012年になってもなおほかの宝を求めて空輸し、水を浚渫し、金属を探知した[5]

英国最大の金のナゲット[編集]

ノーフォーク出身のヴィンセント・サーケトル(Vincent Thurkettle)は2012年に、アングルシー島沖の海域を探しまわっているあいだに英国最大の金のナゲットを見つけた。彼と友人らが『ロイヤル・チャーター』からほかの残骸をさがしつづけたため、彼は発見物を2016年3月まで秘密にしていた。彼は、浜から約5メートル、水深約5メートルのところで97グラムのナゲットを見つけた。ナゲットは『ロイヤル・チャーター』の現場から約40メートルのところにあったため、サーケトルはレシーヴァー・オヴ・レック(Receiver of Wreck)に連絡しなければならなかったし、レシーヴァー・オヴ・レックは王室のためにそれを入手した。最近の複数の嵐は2メートルの砂の下に横たわっている海底をあらわにした[6]

文化上の言及[編集]

  • アメリカのフォーク歌手トム・ラッセル(Tom Russell)は、『ロイヤル・チャーター』の難破に関する唄、2003年のアルバム『Modern Art』の「"Isaac Lewis"」をレコードした。
  • アメリカのフォーク歌手らウィリアム・ピント(William Pint)およびフェリシア・デール(Felicia Dale)は、2017年の彼らのアルバム『Midnight on the Sea』で「"Isaac Lewis"」をカヴァーした。
  • ショットン(Shotton)のロイヤル・チャーターというパブリック・ハウス(Royal Charter public house)は、この船にちなんで命名されている。

出典と脚注[編集]

出典
  1. Jasper Copping (2011年7月17日). “Gold rush shipwreck offers up treasures off Welsh coast after 150 years”. Telegraph. 2014年9月25日閲覧。
  2. Llanallgo, 1870-72, John Marius Wilson's Imperial Gazetteer of England and Wales, Retrieved 17 January 2016
  3. Manchester Weekly Times, Sat 5 November 1859
  4. Holden, Chris (2008). Underwater Guide to North Wales Vol. 2. Calgo Publications. pp. 142–143. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 978-0-9545066-1-2 
  5. Julian Todd. “North Wales Kayak – Summer 2004/5”. 2005年10月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月4日閲覧。
  6. Riley, Jo. “Norfolk prospector finds Britain’s biggest ever gold nugget near shipwreck”. Eastern Daily Press. 2016年5月28日閲覧。
脚注

外部リンク[編集]


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