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ドミティア・パレオロギナ

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ドミティア・パレオロギナ
Δομιτία Παλαιολογίνα
パレオロゴス家

出生 不詳
教皇領ローマ
死去 不詳
教皇領ローマ
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配偶者 エヴァトロ・コンティ
子女 マレッツイオ
ジョヴァンニ
家名 パレオロゴス家
父親 コンスタンチン・パレオロゴス
母親 不詳
宗教 キリスト教カトリック教会
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ドミティア・パレオロギナギリシア語: Δομιτία Παλαιολογίνα, 16世紀ごろ)は、東ローマ帝国皇帝一族であった、パレオロゴス家の末裔とされる女性。

父親は東ローマ皇帝の弟・モレアス専制公ソマス・パレオロゴスを祖父に、最後の東ローマ皇帝コンスタンティノス11世の甥・アンドレアス・パレオロゴスを父に持つとされているコンスタンチン・パレオロゴスである。

生涯[編集]

祖父・アンドレアス・パレオロゴスの印章。双頭の鷲とともに、ラテン語で「アンドレアス・パレオロゴス、神の恩寵を受けたローマ人の専制君主」と記されている。

ドミティア・パレオロギナは、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の皇族パレオロゴス家に連なる家系に生まれた。ドミティアの曾祖父は、東ローマ帝国の正統な後継者と認識されていたモレアス専制公ソマス・パレオロゴス、祖父は同じくモレアス専制公のアンドレアス・パレオロゴスであったが、身分不相応な生活を送ったといわれている。1480年、「ローマの街の女」カテリーナと結婚し[1]、祖父とカテリーナの間に生まれたのが、父・コンスタンチン・パレオロゴスであった。

コンスタンチン・パレオロゴスは後に教皇庁の衛兵をつとめ、ドミティア・パレオロギナをもうけた。当時、教皇庁が存在し、文化・宗教・芸術・学問の中心地であったローマに住んだ[要出典]

父コンスタンチン・パレオロゴスの死後、教皇インノケンティウス3世を排出した名門貴族、エヴァンドロ家の一員、エヴァンドロ・コンティの妾となった。エヴァンドロとの間には2人の双子の息子をもうけ、長男はエヴァンドロ・マレッツィオ(マルス)、次男はエヴァンドロ・ジョヴァンニ・チェーザレ(カエサル)と言った。しかしドミティアの父がそうであったように、彼らが東ローマ皇帝、もしくはその後継者、モレアス専制公等の称号を名乗ることは無かった。

その後、イタリアのローマで死去したとされる。彼女の没年は不詳である。

脚注[編集]

  1. Runciman, Fall, p. 184

関連項目[編集]


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