トマス・ブラッド

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トマス・ブラッド

大佐トマス・ブラッド(たいさトマスブラッド、Colonel Thomas Blood、1618年 - 1680年8月24日)は、アングロ・アイリッシュの士官で、自称大佐である。1671年にロンドン塔からクラウン・ジューエルを盗もうとした未遂でいちばん知られる。アメリカの情報源で「著名なブラボーとデスペラード」("noted bravo and desperado,")[1]と説明され、彼は敵ジェームズ・バトラー_(初代オーモンド公)を誘拐しのちに殺そうとしたという未遂で知られた。

前半生[編集]

情報源複数の示唆するところでは、ブラッドはアイルランド王国クレア県で生まれ[2]、イングランド系の成功した土地所有の鍛冶屋の息子で、そしていちじは、ミーズ県ダンボイン近く、サーニー(Sarney)で育った。彼はあきらかに長老派教会会員であった[3]。彼の家族は立派で繁栄していた(当時の基準によれば)。父親はクレア県、ミース県、およびウィックロー県に土地を所有していた。祖父はアイルランド議会議員であり、キルナボーイ城(Kilnaboy Castle)(クレア県にもある)に住んでいた[4]。彼はイングランド、ランカシャーで教育を受けた。20歳のとき、彼はランカシャー、ゴルボーン出身の紳士ジョン・ホルクロフトの娘マリア・ホルクロフトと結婚し、アイルランドに戻った[5]

1642年の第一次イングランド内戦の勃発で、ブラッドはイングランドに戻り、最初はチャールズ1世に忠実な王党派の軍隊とともに武器を取った。紛争が進行するにつれて、彼は寝返り、オリヴァー・クロムウェルの円頂党の中尉になった[4]。1653年に、敵対行為の停止時に、クロムウェルは奉仕の対価としてブラッドに払下げ公有地を授与し、彼を治安判事に任命した。1660年のイングランド国王チャールズ2世の三王国のクラウンへの王政復古につづいて、ブラッドは家族と一緒にアイルランドに逃げた[4][5]。1662年の土地資産処分法(Act of Settlement 1662)(これは、1652年の土地資産処分法(Act of Settlement)下でクロムウェル崇拝者である新所有者への報酬として割り当てられた土地と不動産の付与の一部を取り消し、無効にすることを目的とした)の下の没収と返還弁償は、ブラッドを財政的破滅に追いやり、ブラッドはこんどは、アイルランドの仲間のクロムウェル支持崇拝者らを団結させて暴動を引き起こそうとした[5]

アイルランドの不平不満[編集]

不満の表現の一部として、ブラッドは、ダブリン城を強襲し、政府を強奪し、そして身代金目的で初代オーモンド公ジェームズ・バトラーとアイルランド総督を誘拐する陰謀をたくらんだ。試みの前夜に、計略はくじかれた。 ブラッドはどうにかして同胞と一緒に山中に隠れて当局を逃れることに成功し、最終的にどうにかしてネーデルラント連邦共和国に逃げることができた。ブラッドの協力者の何人かは捕らえられ、処刑された。その結果、一部の歴史家は、ブラッドがオーモンドに対する復讐を誓った、と推測した[5]

ネーデルラント連邦共和国にいる間、ブラッドは英蘭戦争でイギリス軍の反対者ミヒール・デ・ロイテルに気に入られ、1666年のスコットランドのラリオン・グリーンの戦いでスコットランドの長老派教会の盟約者ら(Covenanters)に巻き込まれた[5]。この期間のある時点で、ブラッドは裕福な第2代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズと関係を持つようになった。彼自身の階級のランキングが彼に「フィールドで」("in the field")彼らに会うことを許さなかったので、彼はブラッドを自分の政治的および社会的敵を罰する手段として使用した、と19世紀の注釈者らは信じた。

1670年に、指名手配の男としての地位にもかかわらず、ブラッドはイングランドに戻りったし、名前Ayloffeを取られ、ロンドンの東、ロムフォード・マーケットで医師または薬剤師として開業していたと考えられている。2回目の試み、今回はオーモンド公爵の生命を奪おうとするのが続いた。

オーモンドがイングランドに戻って以来、彼はクラレンドン・ハウス(Clarendon House)に住んでいた[6]。ブラッドはオルモンドの動きを追っていて、彼はしばしば、少人数の従僕を伴って晩遅くに戻ってくることに注意した。1670年12月6日夜に、ブラッドとその共犯者らがセント・ジェームズ・ストリートを旅しているオーモンドを攻撃した。オーモンドはコーチ馬車から引きずり出され、ブラッドの取り巻きの1人に拘束され、タイバーンで絞首刑にする意図でピカデリー沿いにウマに乗せられた。ギャングはオーモンドの胸に、捕獲と謀殺との理由をくわしく説明する紙を1枚、ピンで固定した[5][6]。オーモンドは馬に乗って追いかけた召使いらの一人をもちいて、わが身を解放することに成功し、逃げ出した。陰謀の秘密は、暗殺未遂犯らの捕獲に対して報酬金が提供されたにもかかわらず、ブラッドが犯罪の疑いがないことを意味した。王の前で、ジェームズの息子トマス・バトラー (第6代オソーリィ伯爵)(Thomas Butler, 6th Earl of Ossory)は、バッキンガム公が犯罪の背後にいると非難した。トマスは、もし父親のジェームズが謀殺されれば、仕返しにバッキンガムを撃ち殺すぞと脅した[1]

クラウン・ジューアルズ(Crown Jewels)の盗み[編集]

ブラッドは長い間身を隠さず、6か月もしないうちにクラウン・ジューアルズを窃盗する悪名高い未遂をした。1671年4月または5月に、彼は牧師に扮して妻のふりをした女性の伴侶を伴ってロンドン塔を訪れた。クラウン・ジューアルズは、管理人に料金を支払って見ることができた。クラウン・ジューアルズを見ている間、ブラッドの「妻」("wife")は胃の不調を装い、新しく任命されたジューアル・ハウスの支配人、77歳のタルボット・エドワーズ(Talbot Edwards)に火酒をいくらか持ってくるように頼んだ[4][5][6]。宝石管理人の屋内の宿舎が騒動の現場に近いことを考えると、エドワーズの妻は彼らを2階のアパートメントに招待して回復し、その後、ブラッドと彼の妻はエドワーズに感謝し、立ち去った[5][6]

翌日、ブラッドはタワーに戻ってエドワーズを訪ね、感謝のしるしとしてミセス・エドワーズに白いグラヴ手袋を4組贈った。ブラッドが一家の機嫌を取って取り入ったとき、ブラッドの架空の甥がエドワーズの娘と結婚するという求婚があった。彼女は結婚のおかげで数百ポンドの収入を得る資格があるだろう、とブラッドは主張した[5][6]

1671年5月9日に、ブラッドは欺瞞を助長するために、ミセス・エドワーズがブラッドとその仲間のために用意する夕食を待っている間、エドワーズを説得し自分に宝石を見せさせた。金属製のグリル1つの後ろに保管されていた。報告によると、ブラッドの共犯者らは、レイピアの刃複数、短剣複数、ポケットピストル複数を隠す杖を複数持っていた。ジューアル・ハウス(Jewel House)に入ると、男らの1人が外に立っているふりをよそおい、残りの男らはエドワーズとブラッドに加わった。ドアが閉められ、エドワーズの上にクロークが投げられた。エドワーズはマレット(mallet)で殴られ、床にノックされ、しばられ、さるぐつわされ、突き刺されて彼を服従させた[5][6]

グリルを取り外した後、ブラッドはマレットを使って聖エドワードの王冠(St. Edward's Crown)をぺしゃんこにし、聖職者のコートの下に隠すことができた。別の共謀者、ブラッドの義兄弟ハント(Hunt)が、十字架つきの笏(しゃく)(Sceptre with the Cross)を2つに分けてクロスに提出し(バッグに収まらなかったため)、第3の男ペロット(Perrot)がソヴリンズ・オーブ(Sovereign's Orb)をズボンに詰め込んだ。その間、エドワーズは落ち着きを保つことを拒否し、しばりと戦った。エドワーズのもがきが警報を発するのに十分な妨害を引き起こしたかどうか、またその試みがもっと偶発的な状況で失敗したかどうかに関して、説明はさまざまである[1]

人気のある報告によると、エドワーズの息子ワイス(Wythe)が、フランドルでの兵役から戻ってきて、盗み未遂に偶然でくわしたという[5][6]。ジューアル・ハウスのドアで、ワイスは即席の警備員に会った。彼は彼に誰何(すいか)し、それから小エドワーズは中に入り、階上にあがった。「警備員」("guard")はそれから仲間のギャングのメンバーらに警告した。ほぼ同時に、大エドワーズはなんとかさるぐつわをほどき、「反逆だ! 殺人だ! 王冠が盗まれたぞ!」("Treason! Murder! The crown is stolen!")と叫んで警報を発した。

ブラッドと彼のギャングがセント・キャサリンズ・ゲートで待っているウマに逃げたとき、彼らは笏を落とし、彼らを止めようとした警備員らに発砲し、1人を負傷させた[7]。1人の跳ね橋の警備員は恐怖に襲われ、マスケット銃を発砲できなかった。彼らは、タワー埠頭ぞいに走ったとき、小エドワーズの義理の兄弟ベックマン大尉に追われるまで警備員らを混乱させるために警報の呼びかけに加わったと言われている。ブラッドは彼をねらって撃ったが、はずし、アイアン・ゲートに到達する前に捕らえられた。王冠は彼のクロークから落ち、見つかったのは、ブラッドが諦めようとせず、捕獲者らと格闘し、「それは勇敢な試みだった、どれくらい失敗であったにせよ! 王冠のためだった!」("It was a gallant attempt, however unsuccessful! It was for a crown!")と宣言している間であった[5][6]。いくつかの石が失われ、他の石は緩んでいたが、グローブとオーブは回収された。ハントとペロットも連れて行かれたが、罰せられなかった[7]

余波[編集]

捕獲ののち、ブラッドは王以外の誰にも答えようとせず、その結果、鎖につながれて宮殿に連れて行かれ、チャールズ王、ルパート王子などから質問を受けた。チャールズ王はブラッドに訊ねた「まんいちわたしがおまえに命を与えたらどうする?」("What if I should give you your life?")、ブラッドは答えた「それに値するように努力します、陛下!」("I would endeavour to deserve it, Sire!")[4]。オルモンドのうんざりしたことに、ブラッドは赦免されただけでなく、1年500ポンド相当のアイルランドの土地を与えられもした。対照的に、エドワーズの家族は国王から300ポンド未満の賞金を授与されたが、その金額はけっして全額支払われなかったし、彼は盗難未遂の話で訪問者らを威嚇するタワーでの職務に戻った。彼は1674年に死亡したし、彼の墓はロンドン塔にあるセント・ピーター・アド・ヴィンキュラ王室礼拝堂(Church of St Peter ad Vincula)にある。

王の赦免の理由は不明である。一部の歴史家は、王がブラッドの追随者らによる復讐の蜂起を恐れたかもしれない、ブラッドは彼らの指導者に宣誓したと考えられていた、と推測している[6]。またある人々は、王がブラッドのような大胆な悪党を好んだ、王冠がそれらを評価した£100,000とは対照的に宝石はたったの£6,000の価値があるというアイルランド人の主張を面白がった、と推測している[4]

また、王は、ブラッドの、以前はテムズ川で水浴しているときに彼を殺す意図だったが、自身が「威厳に畏敬の念」("awe of majesty.")を抱いていたために動揺していたという暴露に、うぬぼれ、面白がったという示唆もある[5]。当時、国王は非常に金が不足していたので、彼の行動は国王の黙認を受けていたかもしれないことも示唆されている[8]

赦免に続いて、ブラッドはロンドン周辺でおなじみの人物になり、裁判所にしばしば現れし、そこで彼は王冠への求婚者の主張を擁護するために雇われた。第2代ロチェスター伯爵ジョン・ウィルモット(John Wilmot, 2nd Earl of Rochester)の『History of Insipids』の中で、彼はブラッドについて書いた――

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Blood, that wears treason in his face,
Villain complete in parson's gown,
How much he is at court in grace
For stealing Ormond and the crown!
Since loyalty does no man good,
Let's steal the King, and outdo Blood!

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顔に反逆をうかべているブラッド、
聖職者のガウンをまとい 申し分ない悪役は、
オーモンドと王冠を盗んで
どれだけ優雅に法廷にいるのか!
忠誠は人に良くないから、
さあ 王を盗み、ブラッドを出し抜こうではないか!

1679年に、ブラッドは元後援者バッキンガム公と口論になり、そしてバッキンガムは、ブラッドが彼の人格について侮辱的な発言をしたとして、ブラッドを相手取って10,000ポンドの訴訟を起こした。その後の手続きで、ブラッドは1680年に王座裁判所によって有罪判決を受け、保釈を認められたが、損害賠償金をけっして支払わなかった[4]

死亡[編集]

ブラッドは1680年7月に刑務所から釈放されたが、しかし8月22日までに昏睡状態に陥っていた[9]。彼は8月24日にウェストミンスターのBowling Alleyにある自宅で死亡した。遺体は、セント・ジェームズ・パーク近くのセント・マーガレット教会の教会墓地(現在のクライストチャーチ・ガーデンズ)に埋葬された。遺体は当局によって確認のために墓から掘り出されたと考えられている――彼の策略の評判があまりに高いので、彼はバッキンガムへの借金を支払うことを避けるために自分の死亡と葬式を偽造したかもしれないと疑われた[10]。ブラッドの碑文はこうある――

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Here lies the man who boldly hath run through
More villainies than England ever knew;
And ne'er to any friend he had was true.
Here let him then by all unpitied lie,
And let's rejoice his time was come to die.

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ここに横たわる男は、イングランドかつて知らなかった
あまたの極悪行為を大胆に駆け抜けた。
そしてどの友人にもけっして誠実でなかった。
それではここですべての憐れまれざる嘘を見逃してやり、
そしてさあ 彼が死ぬ時が来たのを喜ぼうではないか

遺産[編集]

ブラッドの息子ホルクロフト・ブラッド(Holcroft Blood)は、准将の地位に昇進する著名な軍事技術者になった。彼はブレンハイムの戦いで初代マールバラ公爵ジョン・チャーチル(John Churchill, 1st Duke of Marlborough)の砲兵隊を指揮した[11]:381。将軍サー・ビンドン・ブラッド(Sir Bindon Blood)、土木技師ウィリアム・ビンドン・ブラッド(William Bindon Blood)、モーリス・ペセリック(Maurice Petherick)、およびブライアン・イングリス(Brian Inglis)を含む子孫は、イングランドおよびアイルランドの社交界で卓越した経歴を持っていた。

描写[編集]

  • W・P・リップスコーム(W. P. Lipscomb)による1934年の映画『Colonel Blood』は、ブラッドによる王冠の宝石の盗難とその後の赦免を描いている。
  • ブラッドは、部分的には、ラファエル・サバチニの小説『キャプテン・ブラッド』の登場人物の霊感源であった可能性があり、その結果、いくつかの映画化が行われ、いちばん有名なのはエロール・フリンとオリヴィア・デ・ハヴィランドが主演した1935年版である[12]
  • ブラッドは『シャーロック・ホームズの冒険』(1939年)内で言及されている。
  • マイケル・ワイルディング(Michael Wilding)は、NBCのアンソロジー・シリーズ『The Joseph Cotten Show』の1957年のエピソード「"The Trial of Colonel Blood"」でブラッドを描いた[13]
  • ボード・ゲーム『Outrage!』はクラウン・ジューアルズを盗もうとするブラッドの未遂に霊感を受けている。
  • コミックス『Defoe』の3つ目のストーリーラインに登場する[14]
  • BBC/ライオン・テレビジョン・シリーズ『Days That Shook the World』は、シーズン2エピソード4「Grand Heist」でブラッドによる王冠の宝石の盗難を特集した。『Colonel Blood: The Man who Stole the Crown Jewels』の著者デビッド・C・ハンラハン(David C. Hanrahan)は、歴史コンサルタントであった。
  • ブラッドは2014年のウォルト・ディズニー・ピクチャーズの映画『Muppets Most Wanted』内で言及されている。彼が所有していたロケットつき鍵は、王冠の宝石をうまく盗もうとして、映画の悪役らドミニク・バッドガイとコンスタンティンによって探し出された。マペットとしてのブラッドの肖像がみじかく示されている。
  • クラウン・ジューアルズを盗もうとするブラッドの未遂は、David Walliamsの本『Gangsta Granny』、およびBBCの脚色で言及されている。女王エリザベス2世は、ベンと彼のおばあちゃんがクラウン・ジューアルズを盗もうとしている現場をおさえた後、チャールズ王のブラッドの赦免を前例として使用し、今度は彼らを赦免する。

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 The New American Cyclopaedia: A popular dictionary of general knowledge, Volume 3, George Ripley, Charles A. Dana, 1859 (D Appleton & Company) pages 372 to 373
  2. Clare County Library: Colonel Thomas Blood
  3. Colonel Thomas Blood, The Baptist Quarterly, W. T. Whiteley
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 The Theft of the Crown Jewels, Historic-UK.com, E.P.C (2008)
  5. 5.00 5.01 5.02 5.03 5.04 5.05 5.06 5.07 5.08 5.09 5.10 5.11 5.12 London by Charles Knight, London 1851 (H.G. Bohn) pages 230–232
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 6.6 6.7 6.8 Portraits Memoirs and Characters of Remarkable Persons from the reign of Edward III to the Revolution, by James Caulfield, Volume II, London, (1813) R.S Kirby pages 177–181
  7. 7.0 7.1 Old and New London: A Narrative of its History, its People and its Places by Walter Thornbury and Edward Walford, Cassell & Co. Limited (1881)
  8. Churchill, Winston. My Early Life: A Roving Commission, 1930
  9. Marshall, Alan (2002). Intelligence and espionage in the reign of Charles II, 1660–1685 (1st pbk. ed.). Cambridge: Cambridge University Press. pp. 223. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 0-521-52127-0. https://books.google.com/books?id=RRp4FF0i1vkC&q=%22Thomas+Blood%22+%2BAugust+%2B24&pg=PA223 
  10. Short biography of Thomas Blood at Christchurch Gardens”. FindAGrave.com. 2011年5月23日閲覧。
  11. Porter, Major-General Whitworth (1914). History of the Corps of Royal Engineers Vol II. Chatham: The Institution of Royal Engineers 
  12. Clare People: Colonel Thomas Blood”. Clare County Library. 2018年5月7日閲覧。
  13. "On Trial: The Joseph Cotten Show" (Revue/NBC/CBS)(1957-59)”. The Classic TV Archive. 2018年5月7日閲覧。
  14. 2000 AD #1645 (July 2009)

読書案内[編集]

  • David C. Hanrahan, Colonel Blood: The Man Who Stole The Crown Jewels (hardback 2003, paperback 2004)
  • Robert Hutchinson, The Audacious Crimes of Colonel Blood: The Spy Who Stole the Crown Jewels and Became the King's Secret Agent, Weidenfeld & Nicolson, 2015.

外部リンク[編集]

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