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アタナギルド(ヘルメネギルドの子)

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Athanagild
アタナギルド

出生 580年582年もしくは583年?
死去 590年?/613年頃?または没年不明
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子女 ヘレナ?
パウルス?
アルデバルト?[1]
父親 ヘルメネギルド
母親 イングンデ
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アタナギルドAthanagild, 580年~582年/583年? - 590年?/613年頃?または没年不詳)は、西ゴート王国の王族。ヘルメネギルドとその妃イングンデの息子である。同名の西ゴート王アタナギルドは曾祖父にあたる(母イングンデがアタナギルドの次女ブルンヒルドの長女)。その生涯は主に幼少期しか断片的に明らかになっていないが、政治的思惑や宗教的対立に翻弄された悲運かつ悲劇の王族だった。

生涯[編集]

家族の対立[編集]

アタナギルドの両親は579年に結婚した。西ゴートの王族たちは幼少期からアリウス派の教育を受けており、イングンデの母ブルンヒルドの様にカトリック国に嫁入りすると、結婚式の前に自身が改宗して、やがて生まれる子供たちをやはりカトリックに育て上げる義務があった。その逆の場合もあり、イングンデの祖母でアタナギルドの曾祖母ゴイスウィンタ[注 1]は早速、イングンデの為に改宗の儀式を準備する。しかし、イングンデは人並み以上の熱烈なカトリック信者でそれを受け入れなかった。ゴイスウィンタは怒り狂った。年代記によれば、ゴイスウィンタはイングンデの髪を掴んで引きずり回して地面に叩きつけ蹴りつけた。イングンデは怪我をした。それでも言うことを聞かなかった。後に衣服を裂いて裸にし、養魚池に放り込んだ。頭を踏みつけて虐待したなどと書かれている[2]。困り果てた祖父レオヴィギルドは唯一の解決策として、ヘルメネギルド夫妻を当時アンダルシアで前線基地となっていたセビリアに送り出す事にした[注 2]。この様な政治や宗教、軍事が絡むいつ均衡が破れるか分からない時代にアタナギルドは生を受けた。

ヘルメネギルドの乱[編集]

しかし、局面が一変する。父が母とレアンドルスというカトリック僧の影響でアリウス派からカトリックに改宗したのである。レオヴィギルドはヘルメネギルドに交渉を求めるが、ヘルメネギルドは議論すら拒否し、レアンドルスをコンスタンティノープルに派遣して援助を求めた。そして、自身は王を名乗っている。そして東ローマ帝国及びスエビ王国と同盟を結んだ[注 3]。当初この反乱はスペインにあった五つの主都のうち二つまでを支配するなど勢いがあったが、レオヴィギルドの宗教的教義や法律の改正、東ローマ帝国軍の将軍に金貨三万枚を贈呈(賄賂)するという計略や形勢不利と見てスエビ軍の撤退があるなど徐々に勢いをなくし、584年にヘルメネギルドはコルドバに逃げ込んだ。2月、ヘルメネギルドは最後の反撃を試みていた。出陣にあたって、イングンデとアタナギルドを、イングンデの実家アウストラシアに送る手順を整えていたようだが、東ローマ帝国軍の裏切りで母子は共に人質として東ローマ皇帝マウリキウスのもとに送られる羽目になってしまった。これが父との今生の別れとなった。ヘルメネギルドもレオヴィギルドと弟レカレド(後のレカレド1世)の軍勢によってコルドバ郊外の教会内に追い詰められ、レカレドの説得で降伏した。5年続いた内戦はヘルメネギルドの敗北に終わり、タラゴナもしくはトレドに幽閉された。その後も再改宗を拒み続け、再度反乱を計画して軍を密かに集めていた為に1年後の585年に牢獄でシスベルトという刺客に暗殺された。それを命じたのがレオヴィギルドなのかレカレドなのか、それとも両方だったのか、真相はよく分からない[注 4]

乱後[編集]

一方、イングンデとアタナギルドはコンスタンティノープルに向かっていたが、イングンデは船旅の途中でカルタゴもしくはシチリア島で18歳で亡くなり、北アフリカに埋葬された。アタナギルドは無事コンスタンティノープルに到着し東ローマ宮廷で育てられた。その後、アタナギルドが歴史の記録で言及され登場するのは、589年にマウリキウスがレカレドが統治する西ゴート王国を攻め、レオヴィギルド時代に失っていた領土をいつくか回復した時、590年に東ローマ帝国とフランク王国の分王国アウストラシアのキルデベルト2世が共闘してランゴバルト王国を攻めた時である。ランゴバルトとの戦いの時、キルデベルト2世は母ブルンヒルドの影響で東ローマ帝国から甥にあたるアタナギルドの奪還を目指していたといわれているが、西ゴート王国の王位継承権を持っているこの幼子を外交の道具として重視していた東ローマ帝国の意向により、それが実現することはなかった。この記録を最後にアタナギルドの名前は史料から姿を消し、消息不明となった。

アウストラシア書簡[編集]

アタナギルドの母方の祖母でイングンデの母であるブルンヒルドは、アタナギルドの身柄を取り戻そうと東ローマ宮廷や東ローマ帝国の聖俗諸高官に多数の書簡を送り続けた。これらの書簡は17世紀初頭にハイデルベルク大学の図書館で発見され、「アウストラシア書簡」と呼ばれている。

エルウィグ王との関係[編集]

ヘルメネギルドの乱終結から96年後の680年に西ゴート王国でエルウィグが王位についた。エルウィグの父はアルデバルト(アルダバスト)、母はキンダスウィント王の姪でレケスウィント王の従姉妹ゴダとされる。『アルフォンソ3世年代記』にアルデバルトは東ローマ帝国から追放処分を受け、海を渡って西ゴート王国に亡命、キンダスウィントから歓迎されて、王の姪と結婚して側近となり、エルウィグを儲けたことが記されている。この処置は外国人を重用したとゴート人の怒りを買ったという。8世紀のランゴバルト王国の歴史家パウルス・ディアコヌスはアタナギルドがコンスタンティノープルに到着したことを示唆する記述を残しており、17世紀から18世紀にかけての歴史家ルイス・デ・サラザール・イ・カストロもそう記録している。更にルイスはアタナギルドがマウリキウスの姪(弟ペトルスの娘)フラウィア・ユリアナと結婚。このユリアナがアルデバルトとパウルスという人物の母になったという。これに従えば、エルウィグはアタナギルドの孫にあたることになる。

しかし、アタナギルドの息子とされるアルデバルトの出自に関しては様々な議論があり、決着していない。上記のディアコヌスとルイスの説を支持する歴史家もいれば、アルデバルトの別名(アルダバスト)に注目して以下の出自を推測する歴史家もいる。

アルダバストという名前はアルメニアのマミコニアン家出身の人物によく見られる或いは類似しており、例を挙げるとマウリキウスの妹ゴルディアナの娘(名前不詳)がマミコニアン家のアルタバストスに嫁いでおり、更に時代が下って、東ローマ皇帝レオーン3世の娘アンナと結婚してニケフォロスとニケタスの2男を儲け、743年に処刑されたアルタバストス(アルタバズド)がいる。なお、仮説としてゴルディアナの娘とアルタバストスの間に娘がおり、アタナギルドと結婚してアルデバルトが生まれたというものがあるが、マミコニアン家の系譜自体が不明瞭な部分が多く確証に欠け、マミコニアン家に縁もしくはルーツを持つ人物ではないかという結論に留まっている。また、アルデバルトの父とされるアタナギルドも590年を最後に記録が途絶えていることから、この前後に亡くなったのではないかと一部の歴史家の間では考えられている。いずれにせよ、アルデバルトはキンダスウィントに歓迎されただけでなく、西ゴート王族の一員となったことから、東ローマ帝国内で非常に重要な人物であったことが窺えるが、その出自は不明としか言いようがない。

没年について[編集]

アタナギルドの事跡は590年以後途絶えており、前述の通り、590年前後に亡くなったとも考えられているがその生涯を示す一次史料は発見されていない為、確証に欠ける。息子とされるアルデバルトが東ローマ帝国から追放処分を受けて西ゴート王国に亡命し、キンダスウィント王の一族に迎えられている。亡命した理由としてアルデバルトが東ローマ皇帝ヘラクレイオスが没した後の後継者争い(ヘラクレイオスの前妻ファビアの子コンスタンティノス3世派及びコンスタンス2世派と、ヘラクレイオスの後妻マルティナの子ヘラクロナス派の争い)に巻き込まれたことが考えられている。この時にアタナギルドに関しての言及はない為、641年以前に亡くなっていたと考えることもできるが、あくまでアルデバルトをアタナギルドの息子と仮定した場合の推測であり、アタナギルドの没年は確定できないというのが現状である。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 西ゴート王アタナギルドの王妃で、後にレオヴィギルドと再婚。つまり、本項のアタナギルドの実の曾祖母であると同時にレオヴィギルドの長男ヘルメネギルドの継母となる為、義理の祖母でもある。出自は諸説あり、西ゴート王アマラリックの娘、ヴァンダル王国第5代国王ヒルデリックの甥ホアメルの娘ともされる。
  2. 戦略拠点バエティカの主都。ヘルメネギルドはバエティカの長官に任命された。東ローマ帝国は552年に当時、西ゴート王の座を争っていたアギラ1世とアタナギルドの内戦に介入し、アンダルシア地方を征服、スパニア属州として支配していた。この頃の東ローマ帝国勢力は衰退気味であったが、カトリック系の住民たちの地盤は根強く、政治面でも軍事面でも問題だらけの地域だった。最終的に西ゴート王国が東ローマ帝国勢力を完全に駆逐しスパニア属州を征服、イベリア半島を統一するのはレオヴィギルド・ヘルメネギルド父子の時代から約半世紀後のスウィンティラ王の時代(620年代、史料に乏しく征服年の確定は出来ない)まで待たなければならない。但し、イベリア半島統一後もバレアレス諸島は最初のイスラム王朝であるウマイヤ朝による征服まで東ローマ帝国の領土であり続けた。
  3. ヘルメネギルドも当初は改宗を疑問視していたという。異説によれば、ヘルメネギルドはレオヴィギルドと袂を分かって後、東ローマ帝国を頼るために改宗した。また、ヘルメネギルドの実母でヒスパノ・ローマ人であるテオドシアがどうやら改宗者で、長男の彼だけは密かにカトリック信者として育てられたとの噂もあった。
  4. 結果論的ではあるが、ヘルメネギルドはレカレドの説得によって降伏して幽閉された為、レカレドの言葉に欺かれたことになる。更にレカレドには兄殺しの疑惑も存在したらしく、(例えそれが、中傷やデマであっても)カトリック改宗後のレカレドが、フランク王の一人グントラムに和平を求めた際、「たくらみによって彼女(イングンデ)の夫(ヘルメネギルド)を殺した」者との和解はありえないと拒絶したという逸話が伝わっている。少なくともヘルメネギルドの死によって王位がレカレドに回ってきたことは確かで、グントラムはレカレドが策略によってヘルメネギルドを死に追い込んだという認識を真実としていたようである。

出典[編集]

  1. 綴りは「Ardebart 」。
  2. 高橋博幸・加藤隆浩 編 (2003)『スペインの女性群像-その生の軌跡』行路社 p17,p18

参考文献[編集]

  • 玉置さよ子 『西ゴート王国の君主と法』 創研出版 1996年
  • 鈴木康久 『西ゴートの遺産 - 近代スペイン成立への歴史』 中央公論社 1996年1月
  • 尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国史』 東海大学出版会 1999年2月
  • 関哲行、立石博高、中塚次郎 『スペイン史 1 古代-近世』 山川出版社〈世界歴史大系〉 2008年7月
  • 下津清太郎 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社 1982年
  • 永川玲二 『アンダルシーア風土記』 岩波書店 1999年7月27日
  • デイヴィッド・キーズ 『西暦535年の大噴火ー人類滅亡の危機をどう切り抜けたか』 文藝春秋 2000年2月


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