アシュタビューラ川鉄道災害

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アシュタビューラ川鉄道災害(Ashtabula River railroad disaster)
ハーパーズ・ウィークリーに掲載された小口木版、 1877年1月20日。機関車「"Socrates"」が上右にある。
ハーパーズ・ウィークリーに掲載された小口木版、
1877年1月20日。機関車「"Socrates"」が上右にある。
発生日 1876年12月29日
発生時刻 午後7時30分ころ
場所 スクリプトエラー: モジュール「Separated entries」はありません。
運行者 レイク・ショア・アンド・ミシガン・サザン鉄道
事故種類 Derailment and fireと火災
原因 橋の崩壊
統計
列車数 1
乗客数 19人
死者 92人 (おおよそ)
負傷者 64人
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アシュタビューラ川鉄道災害(アシュタビューラかわてつどうさいがい、Ashtabula River railroad disaster)(別名「アシュタビューラの恐怖」(Ashtabula horror)、「アシュタビューラ橋の災害」(Ashtabula Bridge disaster)、「アシュタビュラ列車の災害」(Ashtabula train disaster)ともいう)は、1876年12月29日のアメリカ合衆国オハイオ州アシュタビューラの町の近くのアシュタビューラ川に架かる橋の災害である。約160人の乗客を乗せたレイク・ショア・アンド・ミシガン・サザン鉄道の列車が橋を渡ったとき、橋がこわれだめになった。先頭機関車以外はすべて川に突っ込んだ。列車の石油ランタンと石炭火力暖房ストーブが木造車らに火をつけた。消防士らは炎を消すことを断わり、個人らに残骸から生存者らを引き抜こうとさせた。墜落を生き延びた多くの人々は焼死した。その事故でおおよそ92人が死亡した。これは19世紀アメリカで最悪の鉄道事故であり、1918年列車大事故までアメリカ史上最悪の鉄道事故であった。

検死官の報告で、橋は鉄道会社の社長によって不適切に設計され、建設が不十分で、そして検査は不十分であった、とわかった。事故の結果、町に病院が建てられたし、連邦システムが致命的な鉄道事故を正式に調査するために設立された。

橋の設計と建設[編集]

1863年に、クリーブランド・ペインズビル・アンド・アシュタブラ鉄道(CP&A。レイク・ショア・アンド・ミシガン・サザン鉄道の前身の1つ])の職員らは[注釈 1]、オハイオ州アシュタビューラの村のすぐ東にあるアシュタビューラ川に架かる木橋を鉄の構造物に置き換えることを決めた[2]。アマサ・ストーンはCP&Aの社長であった[3][4]。彼の建設会社は1850年から1852年までCP&A幹線を建設していたし[5]、ストーンは義兄弟ウィリアム・ハウのトラス橋の特許権を購入していた[6]それは1842年のことであった[7]。ストーンは、一般的に使用されるタイプの鉄道橋 ハウトラス橋を建設することを決意し[8]、新橋を個人的に設計した[2][3][注釈 2]最長のスパンは長さ154フィート (47 m)で、下の川の上76フィート (23 m)であった[10][注釈 3]

ストーンはまた、クリーブランド・ローリング・ミル(当時はストーン・チスホルム&ジョーンズカンパニーとして知られていた)[13]、オハイオ州クリーブランドに拠点を置く鉄鋼会社に製鉄所の契約を与えることを決定したし、それは彼の兄アンドロス・ストーンによって経営されていた[2][14]。Iビームは工場で製造された。工場はまた、CP&Aに生鉄を提供したし、それはその後、製造計画に従って鋳鉄と錬鉄の要素を作成した。ショップ・マスター・メカニックのアルバート・コンドンがこの後者の仕事を監督した[15]

設計[編集]

アマサ・ストーン 橋の設計者

アマサ・ストーンの橋は、自身の認めるところによれば、実験的であった[16]。彼は以前にすべて鉄のハウトラス橋を1つだけ建設したことがあった。それはクリーブランドのオハイオ・アンド・エリー・カナルに架かる高さ5フィート (1.5 m)、長さ30フィート (9.1 m)の鉄道橋であった[10][注釈 4]

有名な橋建設設計者ジョセフ・トムリンソンIIIは、ストーンの設計を具体化し、すべての橋のコンポーネントの製造図面を作成するために雇われた[17]。トムリンソンは、橋の下弦材を6インチ (150 mm)のむくり[注釈 5]を持つように設計した。橋を支えている足場が撤去され、橋の死荷重が働き始めるとき、むくりは3.5から4インチ (89から100mm)の間に落ちるであろう[9]。ストーンが橋を木と鉄の組み合わせでなく完全に鉄で作ることを要求したとき、トムリンソンは驚いた[注釈 6]。すべて鉄の橋は、はるかに大きな死荷重を持ち、橋の活荷重(列車を運ぶ能力)を減らすであろう[10]。彼はまた、ストーンが使用する意図であるビームとポストは小さすぎる、と結論付けた[3][注釈 7]。トムリンソンはそれらを強化するためにIビームにリベット留めプレートを提案したが、しかしストーンは腹を立てて拒否した[19]。ストーンはトムリンソンに、必要な変更を加えるよう要求した。トムリンソンはそれを拒否し、設計作業から解雇された[3][10]。その後、ストーンはCP&Aのチーフ・エンジニア チャールズ・コリンズに、橋の設計に、必要な変更を加えるように命じた。コリンズはそれを拒否し、設計作業から解雇された[20]。その後、ストーン自身が設計に変更を加えた[21][注釈 8]

その後、ストーンは設計に追加の変更を加えた。ハウトラス橋では、垂直なポストらがトラス内の上下の弦材(主パラレル)を接続する。列車が移動するデッキは通常、これらのポストから吊り下がっている。活荷重が大きければ大きいほど、ポストの張力が大きくなる。ブレーシングは圧縮で反応し、緊張を和らげる。アマサ・ストーンはこの設計を反転させ、上弦材(いまや橋の底部にある)のみが張力を提供するようにした。斜めのブレースが活荷重から余分な圧縮を受けなかったところでは、倒立したハウトラス橋は、垂直ポストが鋳鉄アングルブロックでデッキに取り付けられているところで座屈する傾向があった[21]。ストーンの他の大きな変更は、エンドパネルに関係していた。伝統的なハウトラス橋では、橋の両端の両側にあるエンドパネルは、3本の垂直ポストと3本の斜めブレースを持っていた。1863年までに建設されたハウトラス橋は5つだけで、エンドパネルに垂直ポストを1つ、斜めブレースを2つしか持っていなかった。これらは「シングルハウ」("Single Howe")橋として知られていた。アマサ・ストーンは、アシュタビューラのエンドパネルに「シングルハウ」設計を使用した[11]。かくして、橋の構造全体は、わずか12本のビームとポスト(両端に3本)に依存していた[11][25]

アングルブロックの設計[編集]

アシュタブビューラ橋の弦材、斜材、アングルブロック、そして垂直ポスト 1877年にチャールズ・マクドナルドによって最初のプランから引かれた

ガスパリニとフィールズは、アングルブロックと斜材の端(「ベアリング」)の正確な設計が歴史に失われている、と主張している[26]

1877年に橋の当初のプランを検査した土木技師チャールズ・マクドナルドは、[注釈 9]。アングルブロックの一部を説明し、図面を作成した。彼は、垂直ポストが直径3インチ (76 mm)の鉄パイプでできていて、壁の厚さが0.5インチ (13 mm)である、と述べた。パイプの中には太さ2インチ (51 mm)の鉄のロッドが走っていた。ロッドの頂部は、橋の頂部にある弦材の部材間の空きを、次にギブプレートを通過した。[注釈 10]ロッド上端にナットとワッシャーをねじってつけ、張力を発生させ、ギブプレートを所定の位置に固定する[29]。橋の頂部にあるこれらアングルブロックには、垂直な角張ったラグ(lug)があった。アングルブロックの上で終わる弦材部材は、ラグによりかからせてベアリングを配置した。これらラグは、弦材からアングルブロックに、そして斜材に応力を伝達するのに役立った。これら上部アングルブロックには、内側を向いたラグもあったし、側面ブレースが取り付けられていた(手段によってマクドナルドは説明しなかった)[30]。各上部アングルブロックの内側にも、ラグとタップボルトを受け入れるためのくぼみがあった。[注釈 11]タップボルトは、スウェイロッドの端にあるラグをアングルブロックに接続するために使用された[32][注釈 12]

マクドナルドは、橋の底部にあるアングルブロックについて説明した(しかし、その図面は公開しなかった)。これらアングルブロックにねじ込まれた垂直ポストのロッドの底部。橋の底部にある弦材の部材は、Iビームではなくフラットバーであったし、各バーの寸法はテンプレート:Convert/by/AoffSoff (130 × 9.5 mm)であった。弦材の部材がアングルブロックで終わったところで、テンプレート:Convert/by/AoffSon (76 × 25 mm)のラグがバーの基部に鍛造された。このラグは、アングルブロックのスロットに収まる。橋の底部の弦材を構成するアングルブロックにも、内側を向いたラグがあったし、それに(手段によってマクドナルドは説明しなかった)横方向のブレースが取り付けられていた[30]

マクドナルド、ガスパリニとフィールズは、斜めのIビームが、Iビームのフランジが垂直位置にある状態で上部と下部の両者のアングルブロックに接続するように設計されていることに注目した。 Iビームのウェブは、ラグ2つの間の水平スロットに収まる[26][32]

橋の端では、各アングルブロックの半分のみが荷重を受けた、なぜならストーンがエンドパネルで単一の斜材のみを使用したから、も知られている。これにより、これらアングルブロックの橋側に巨大なせん断応力が発生した[33]

建設[編集]

ハーフアングルブロックのいちデザイン。取り付けられた弦材は、ブロックの片側だけに巨大な下向き(せん断)応力をかける。 ブロックはそのために設計されていない。

プランアシュタビューラ川の橋は、ストーンの設計とプランを使用し、一部は彼の監督下で1865年に建設された[11]。トムリンソンは橋の最初の建設監督者であったが、しかしストーンは、自分は橋の建設中のある時点で「非効率」("inefficiency")で彼を解雇した、と言った。トムリンソンはA・L・ロジャーズに置き換えられた[23]

建設が始まったとき、トムリンソンは、斜材として使用することを目的としたIビームが、要求された製造プランより小さいことを観察した[26]

むくりの量は、建設中に問題を引き起こした。コンドンの提案で、ロジャーズは5から7インチ (130から180mm)のむくりを備えた橋の建設を支援するために足場を建設した。ストーンは、いまやロジャーズの仕事を監督しており、むくりを3.5インチ (89 mm)に減らすように命じた。いまや上弦材の部材が長すぎるために、ロジャーズはそれらベアリングを削った。ロジャーズが他の変更も命令したことは明らかであるが、しかしこれらが何をふくんでいたかは不明である。ガスパリニとフィールズは、彼はまたアングルブロックの上にもラグを計画したことを示唆している[15]。足場が取り除かれ始めたとき、死荷重により、橋は水平より約2.5インチ (64 mm)下に曲がった[34]。橋はジャッキアップされたし、足場は元の場所に戻された。ストーンはそれから弦材部材を元の長さに戻すように命令し、トムリンソンの意図したむくりを復元した。ロジャーズは、新しいIビームを注文するのではなく、シムを使用してベアリングとラグの間の空きを閉じた[35]

足場が2回目に撤去されたとき、橋は垂直ポストが甲板に接続している所で座屈した[14][21]。いくつかの斜材も座屈した[35][注釈 13]。もう一度、足場は元の場所に戻った[35]

この問題を修正するには、ストーンは、斜材を強化するために、斜材に鉄製のIビームを追加した[36]。追加されたビームの配置、サイズ、および数は明確でないが、しかし、ストーンはおそらく、エンドパネルのブレースにIビーム2つ、最後から最初のパネルのブレースにIビーム2つ、最後から2番目のパネルにIビーム1つを追加した[35]。これは、橋の死荷重問題を悪化させた。コリンズ、コンドン、ロジャーズ、そしてストーンはすべて、斜材を構成するIビームが90度回転させられ、それでフランジが水平であった、と後で証言した。コンドンは、もしIビームを回転させれば、より多くの活荷重がかかるだろうことに気付いたと言っている[注釈 14]。コリンズ、ロジャーズ、そしてストーンは、労働者らが(彼らの側に)誤ってビームを設置した、と信じていた[35][注釈 15]。変更を加えるために、ストーンは作業員らにベアリングで斜めの各Iビームのウェブの一部を切り取り、ウェブがラグにフィットできるようにした。これは新しい斜材を弱めた[11]。ブレースとカウンターブレースが回転させられている間にアングルブロックが損傷したという証拠もいくつかある[37]

橋はふたたびプレストレスを与えられた[35]。他のすべてのパネル接続では、垂直ポストを締めて斜材を圧縮するのではなく、シムを使用して斜めのブレースをアングルブロックに取り付けた。これは、シムがブレース自体ではなく、活荷重の重量を支えていることを意味した[38]。シムが不均一な接触を引き起こし、アングルブロックが曲げ応力とせん断応力の両者を受けたということもあり得る[39]。がそれにもかかわらず、今回は橋はたるまなかった[35]

完成するや、機関車3両を高速で橋の上を走らせることによって橋をテストした。2番目のテストは、機関車3両を橋の上で静止させた。たわみは最小限であったし、橋は十分に跳ね返った[40][41][42][注釈 16]

橋の崩壊と火災[編集]

崩落前の鉄橋

ブリザードの条件[編集]

レイク・ショア・アンド・ミシガン・サザン鉄道の5番列車[43][注釈 17]The Pacific Express』として知られ、1876年12月29日午後2時に、予定より1時間8分遅れてニューヨーク州バッファローを出発した[47]。強力なブリザードが2日前に、オハイオ州北部、ペンシルベニア州北東部、そしてニューヨーク州東部を襲い始めた[48][注釈 18]。20インチ (510 mm)以上の雪がすでに降っていた[50]し、風24から54マイル毎時 (39から87km/h)[51]が線路に重い雪だまりを作りつつあった[52]ところどころ深さ6フィート (1.8 m)[53]。雪はとても重かったために、バッファローを出た直後に、2両目の機関車が、列車を引くのを助けるために追加された[47]

列車は午後5時1分にペンシルベニア州エリーを出発し[54]、予定より1時間16分遅れであった。[注釈 19]その機関車2両、『Socrates』と『Columbia』は、手荷物車2両、デイ客車2両、急行車2両、応接室車(「"Yokohama"」)、寝台車3両をたぐっていた(「"Palatine"」、これはニューヨーク市発、シカゴ行き。「"City of Buffalo"」、ボストン発、シカゴ行き。そして「"Osceo"」、セントルイスに行く乗客のための寝台車)、そして喫煙車1両[55][61][62]乗客は約150〜200人、乗組員は19人。[注釈 20][注釈 21][注釈 22]。大雪のために列車を駅から遠ざけるには、さらに機関車が2両必要であった[55][57]

最初の崩壊と「"Socrates"」の生存[編集]

No. 5は午後7時5分にクリーブランドに到着する予定であった[60]が、しかし午後7時30分ころに[70][75]それはちょうどアシュタビューラに到達しようとしていた――予定より1時間53分遅れ[60]。約30分前に、LS&MSのNo. 8客車がアシュタビューラ川橋を無事通過し、東に向かった[62]。アシュタビューラ川に架かる橋は、アシュタビューラ駅の東約1,000フィート (300 m)にあったし、機関車は橋の東約66から99フィート (20から30m)で蒸気を遮断し(ドライブへの力を遮断)、列車が駅に滑り込むことができるようにした[77]。『Pacific Express』は、橋を渡ったとき、10から15マイル毎時 (16から24km/h)であった(機関車の機関士らによると)[62][77]。視程は事実上存在しなかった[78]、せいぜい車両長1つか2つであった[62]

「"Socrates"」が西の橋台に近づくと、機関士ダニエル・マクガイアはクラックが聞こえ、機関車がゆっくりと下に落ちるのを感じた。橋が自分の下で崩壊していることに気づき、彼はスロットルを最大に開いた。車両11両の重量が背後の「"Columbia"」を引き始めたちょうどそのとき、「"Socrates"」が前によろめいた。機関車2両の連結がスナップ音をたてて切れ、それで「"Socrates"」は橋を離れることができた[78]。彼の炭水車の後部ボギー台車はちゅうに浮いたが、しかし、「"Socrates"」の前進運動は炭水車を前進させたし、それはレールと堅固な地面を取り戻した。マクガイアは「"Socrates"」を、軌道を約100ヤード (91 m)下ったところに停止させ、繰り返し笛を鳴らしたり、警鐘を鳴らしたりし始めた[62]

残っている橋の崩壊[編集]

残骸の郵便はがき写真。風景は西の橋台に向かっている。左の残骸に機関車「"Columbia"」が見える。

「"Columbia"」とその背後にある11両は、リンクされたチェーンロードのように機能した。したがって、橋の崩壊は突然ではなく、ややゆっくりと少しずつであった[78]。「"Columbia"」が橋台を打ち、機関車は石造物で支えられ、炭水車は川の谷に向かって下向きにぶら下がっていた[77]。最初の急行車が渓谷に落ち、[注釈 23]橋台のベースで鼻を最初に地面に激突した[79][注釈 24]。「"Columbia"」は橋台から後方に滑り落ち、最初の急行車の上に逆さまにかつ後方に着地した[62][80]。それはそれから横に倒れ、そのボギー台車は北を向いていた[81]

2両目の急行車と手荷物車2両は、橋の少し南にほぼ直立して着地した。2両目の手荷物車はわずかに斜めになっており、その鼻は西の橋台に寄りかかっており、後部は南東を向いていた。橋の上弦材(橋の底部)のほとんどが橋の北の地面に衝突した[79]。下弦材(橋の頂部の)とデッキの残りの部分は、しばらくの間保持されていて、その後、直接に転倒して機関車、急行車、そして手荷物車の上に着地した[82]。運動量は列車の残りの部分を、橋がかつてあったところに引き込んだ。最初の客車は、橋の残骸と2両目の急行車の上に中流に直立して着地した。[注釈 25]2両目の客車は落下時に空中でねじれ、橋と1両目の手荷物車の上に側面を接して着地した。喫煙車は、その前の客車から解放されて、より自由に動いた。それは2番目の客車の前部を打ち、それを押しつぶし、それから最初の客車の中に前進させられた。(最初の客車のほとんどの人は、喫煙車が自分らに落ちたとき死亡したと広く信じられている。)[84]

運動量はまた、パーラーカー「"Yokohama"」と寝台車3両を割れ目に運んだ。それらはすべて、橋の南約80フィート (24 m)に着地した。「"Yokohama"」は中流に直立して着地した[84]し、寝台車「"Palatine"」はほぼ右側を上にして北に着地した[62][84]。寝台車「"City of Buffalo"」はそれから「"Palatine"」の後部に鼻から跳び込み、部分的につぶして、数人が死亡した[62]。それは「"Palatine"」を通って「"Yokohama"」の後部の中に続き、特等客車を横に押したおした。「"Buffalo"」は特等客車の長さに沿って前方に激突し、それでおそらく内部の全員が死亡した[85]。「"Buffalo"」の後部は、空中高く「"Palatine"」の上にあった[86]。或る目撃者は、「"City of Buffalo"」のだれも墜落を生き延びなかった、と言った[62]。最後の寝台車「"Osceo"」は、ほとんど直立した状態で川の東岸に着地した[84]

火災と死亡[編集]

1878年の素描 橋の廃墟の1877年1月の写真に基づいて描かれた
アシュタビューラ鉄道橋災害の現場 2015年

墜落は鉄道の西32丁目駅[87](橋の西ちょうど100ヤード (91 m))[80]と町とで聞こえたし、警報が発せられた[88]。現場で最初の救助者らは、鉄道の従業員、駅のホームで待っている人々、そして橋の近くに住んでいたアシュタビューラの住民であった[87]。谷底への唯一のアクセスは、雪に覆われた急で狭い階段のセットであった[89]。ほとんどの人は階段を踏むのではなく急な坂を滑り降りたし、何人かの人は生存者らを解放するために斧を持ってきた[87]

木造車らは、石炭をそして灯油を供給された暖房ストーブと石油ランプがひっくり返ったとき、炎上した[8]。初期の報告によると、「"Osceo"」でと少なくとも他の3つの場所で火災が発生したし、1分以内に残骸全体が炎上した[62]。歴史家ダレル・E・ハミルトンは、火事は両端で発生し、中央に向かって移動した、と言っている[87]。後部制動手A・H・ストーンによると、残骸の中でまだ生き残っている人々は20分以内に死亡した[90]。救助者らが橋に着くときまでに、多くの負傷した乗客はすでに岸に向かっていた[91]し、火は激しく燃えつつあった[92]

Ashtabula Fire Brigadeによる反応は最小限であった。市の消防署長G・W・ナップはアルコール中毒者であったし、しらふの時でさえ決定を下すのが遅く、簡単に混乱した[87]。Lake Erie Hose Companyの手動ポンプ式および蒸気ポンプ式のウマが引く消防車が最初に到着した[93]が、[注釈 26]しかし、ナップはけっして炎と戦うようになんら命令しなかった。彼は或る傍観者に、火と戦うことに意味がない[87]、何人かの生存者がまだ残骸に閉じ込められていることは明らかであっても、と語った[96]。鉄道の従業員らはまたナップに、あなたの消防士らは負傷者を外に出し、峡谷の側の小道を片付けるべきだ、と語った[97][注釈 27]。少なくとも1人の町のメンバーがナップに炎に水をかけるように頼んだが、しかし彼は拒否した。その代わりに、町民はバケツを確保し、(消防隊の何人かのメンバーの助けを借りて)炎を消そうとした[93]。Protection Fire Companyの手動ポンプエンジンとNeptune Hose Companyの蒸気パンパー(両者ともにウマが引く)は、町を通って橋まで1マイル以上運ばれたが、しかし、到着があまりに遅すぎて火の広がりを止められなかった[95][注釈 28]

暗闇と眼を見えなくさせる雪のために、生き残った乗客らは向きを変え、残骸から抜け出すことが困難であった[80]。多くの乗客が川で溺死したいっぽうで、また一部の乗客は炎を逃れ、結局煙の吸入で死亡した[98]

負傷したそして死にかけている人々は、急な階段を抱え上げられるか、でなければ、ロープで引き上げられる小型そりや大型そりで傾斜をたぐりあげられた[99]。 アシュタビューラに病院はなかった。負傷者は最初に鉄道の車庫に、駅に隣接する汚い荒廃したイーグル・ホテルに、または近くのアシュタビューラ・ハウス・ホテルに運ばれた。これらの場所がいっぱいになると、住民らは生存者らに家を開放した[99]。負傷した歩行者が、谷からたぐり上げられた最後であった。真夜中までに、すべての生存者は安全に達した[99]。村の医師10人が負傷者に付き添った。午前1時ころ、クリーブランドから鉄道関係者らとさらに5人の外科医を乗せた特別列車が到着した[99]

泥棒らは死者と負傷者の間を移動し[100]、金銭と貴重品を盗んだ。翌朝、おおぜいの好奇心旺盛な人々が残骸現場に集まったし、群衆の中の何人かは列車を略奪したし、ついにアシュタビューラの市長H・P・ヘップバーン[95][101]は、[注釈 29] その場所に警備員1人を配置した[98]。地元の警察による捜査につづいて、金銭と貴重品の一部が発見されたし、いくつかの逮捕が行われた[98]。ヘップバーンは後に、盗品を引き渡しただれか他の人に恩赦を約束する布告を出した。約1500ドル($テンプレート使用エラー {{Inflation}}: |index=US (パラメータ1)はインデックスとして正しくありません。 in 2020 dollars)相当の金銭と貴重品が集められた[102]が、しかし、盗まれた金銭と品物のほとんどはけっして回収されなかった[98]

アシュタビューラ橋災害で死亡した人の数はけっしてわからない[68]。数は少なくは87、あるいは多くは200でありえるけれども、公式の数は92人が死亡している[6][8][37][68]。さらに64人が負傷した[6][8][37]。死者の数は不正確である、ひとつには列車の乗客数を見積もるのが難しいからで、ひとつには多くの遺体が部分的であったから(片手、片脚、トルソ)。残骸から回収されたほとんどの(ただしすべてでないけれども)遺物は、認識しえないほど燃やされていたし、衣類や身の回り品からは身元を特定できなかった[103]。未知数の死者が火の中で本質的に火葬された[104]。死者の中には賛美歌作者Philip Blissがいた[93][注釈 30]

身元確認と死者の埋葬[編集]

死者の身元特定には1週間以上かかった。鉄道貨物室には約36体の遺体の全部または一部が残っていたし、心配している家族は立ち寄り、死体の身元を特定しようとするよう奨励された[98]。残骸後の数日間、町民と鉄道の従業員らは手と足、鍬(hoes)、熊手(rakes)、そしてシャベルを使って灰、氷、泥、そして雪を掘り起こし、身の回り品を見つけた。これらの品物――これらは、部分的に燃えた列車のチケット、日記、写真、懐中時計、宝石類、ユニークなまたは珍しい衣類品、または記念品をふくんでいた――は鉄道によって保管された。死体の身元が特定できなかったとき、悲しみに暮れる家族はときどき、これらの「聖遺物」("relics")を使って、愛する人が列車に乗っていることを確認できた[106]。そうでさえ、身元を特定する物体や紙の識別はしばしば遺物から分離されたし、遺体の身元誤認が一般的であった[107]

心配している友人らと家族らは、愛する人の知識を得ようとして、何百もの手紙と電報を鉄道と市当局に送った。これらは、乗客とされる人物の人相書きと、身元を特定する身の回り品をふくんでいた。これらの手紙のいくつかは、金(きん)の懐中時計、宝石類、またはその他の物品を「戦利品」("loot")として探している人々から送られた、不正なものであった。不正な手紙はかなり簡単に見つけられる傾向があったし、返事を答えられなかった[108]

残骸の捜査官らは、つい1月中旬までまだ遺物を発見しつつあった[109]

1877年1月19日に、アシュタビューラのチェスナット・グローブ墓地で身元不明の死者の埋葬が行われた[110][注釈 31]長さ1マイルの行列が死者を墓地に運んだ[111]。鉄道は、推定22人の遺骨を含む18個の棺が置かれた埋葬地を購入した[104]

まだ身元が特定できることを期待して、3体の死体とともに3つの棺が貨物室に残っていた。これらの遺物は、請求されなくなったとき、約1週間後にチェスナット・グローブの同じ区画に埋葬された[104]

捜査[編集]

チャールズ・コリンズ、橋の鉄道のチーフエンジニア

12月30日夜明けに、アシュタビューラ在住のフレッド・W・ブレイクスリーが、大破した橋と列車の写真を撮った。これらは、2003年の時点で知られている、残骸の最も広範な文書を提供している[112]

災害について3つの捜査が行われた[注釈 32]

検視陪審による結論[編集]

アシュタビューラに検死官はいなくて[113]、町から男6人の検死陪審が12月31日に治安判事エドワード・W・リチャーズによって召集された[114]。陪審は、20人の鉄道職員と従業員(機関車技師と後部制動手両者を含む)、アシュタビューラ消防署のメンバー9人、アシュタビューラの居住者10人、乗客6人、8人の土木技師と橋梁建設者から証言を取った[95]。検死陪審は1877年3月8日に報告を提出した[95]

検死陪審は、アシュタビューラ川の橋の崩壊と火事による死亡を5つの要因で非難した[95]――

  1. 橋は設計がまずかった。すべて鉄のハウトラスは、このような長い橋には適していなかった。弦材とブレースの一部の部材は、十分な強度を持つように設計されていなかったし、配置が不十分であった。横方向のクロスブレーシングは、ほとんど価値がないほどアンダーデザインであった。アングルブロックのラグがあまりに少なすぎて設計が不十分であったし、これはブレースとカウンターブレースが所定の位置からずれないようにしなかった。[注釈 33]
  2. 橋は貧弱に建設された。橋の各部材は、隣材らと積極的につながるのではなく、独立して行動した。一部の垂直なポスト、ブレース、およびクロスブレースが間違った場所に配置されていた。橋の強化中の設計変更に対応するために、アングルブロックのラグと弦のIビームのフランジが部分的に切り取られ、強度と有効性が低下した。ブレースとカウンターブレースを結合するために使用されるヨークの構造は貧弱であったし、シムはあまりに短すぎる弦材を補うために使用された。完成前に橋に行われた変更は、薄いものが必要なところで厚い部材を使用し、厚いものを使用する必要があるところで薄い部材を使用した。
  3. 鉄道橋の検査官らは仕事を適切に遂行しなかった。検査官らは、橋の設計と建設における深刻な欠陥に気付くべきであったが、気づかなかった。彼らはまた、部材が時間の経過とともに緩むという問題を観察すべきであった[注釈 34]
  4. 1869年5月4日に可決された州法で必要とされているように、鉄道は自動消火暖房ストーブを使用しなかった。
  5. 現場の人々が炎を消そうとしなかったために、火事が悪化した。Lake Erie Hose Companyのハンドポンプと蒸気ポンプは、最初に現場で、生命を救い得たはずである。Neptune Hose Companyの蒸気ポンプとProtection Fire Companyのハンドポンプは、雪の吹きだまりの中を1マイル (1.6 km)以上運搬されたが、しかし到着があまりに遅すぎた。

アマサ・ストーンは、橋の貧弱な設計の責任を個人的に負っていたし、鉄道会社は、橋の緩い検査と自己消火加熱装置の不使用の責任を個人的に負っていた。G・W・ナップは、適時に火事と戦わなかった責任を個人的に負っていた[95]

州議会合同委員会による結論[編集]

アシュタビューラ橋の残骸のスケッチ

1877年1月1日に、オハイオ州議会は、アシュタビューラ川橋の崩壊の原因を調査し、議会に勧告を行なう委員会を任命する共同決議を採択した。委員会は、オハイオ州下院のメンバー5人とオハイオ上院のメンバー3人で構成されていた[117]。上院議員A・M・バーンズが委員会の議長を務めた[118]。合同委員会は、土木技師3人(ベンジャミン・F・ボーエン、ジョン・グラハム、およびトマス・H・ジョンソン)を雇い、残骸を調査し、橋の設計と性能について委員会に報告した。委員会はまた、土木技師アルバート・S・ハウランド[注釈 35]とW・S・ウィリアムズから書面による報告を受け、土木技師M・J・ベッカーからそして鉄道関係者と従業員のアマサ・ストーン、チャールズ・コリンズ、アルバート・コンドン、A・L・ロジャース、そしてグスタフス・フォルサム(「"Columbia"」の技師)から個人的な証言を得た[注釈 36]。技術的アドバイスは土木技師ら D・W・コールドウェルおよびJ・E・ライトによって提供された。検死陪審は、合同委員会にそのすべての証言と報告への完全なアクセスを許可した。その報告の付録で、合同委員会は、土木技師ら A・ゴットリーブ、ジョン・D・クレホール、およびジョセフ・トムリンソンの検死陪審の証言を全文印刷した[120]

立法合同委員会は1877年1月30日に報告を発行した[40]。委員会は、3つの要因でアシュタビューラ川橋の崩壊を非難した――[116][121]

  1. 橋の設計に欠陥があった。設計に、ブレースまたは上弦材の横方向の座屈を妨げるものはなかった[注釈 37]。上弦材の一部のみがアングルブロックに荷重を伝達するように設計されていたし、アングルブロックのラグは設計が不十分であった(そのために、ひずみがブレースとカウンターブレースに完全に伝達されなかった)。橋は明らかに動かない活荷重用に設計されていたし、それがジャリング、アサレイション、バイブレーションあるいは風の力に対応するように設計されていることを示す証拠はほとんどなかった。
  2. 建設に重大な誤りがあった。ブレースを構成する部材は、一斉に動作するように接続されていなかったために、橋が活荷重を運ぶ能力が大幅に低下した。下弦材では、横方向のブレースは1つおきのパネル接続にのみ配置され、2つのパネル(1つではない)にまたがって延長され、交差する場所で互いに接続されていなかった。揺れブレースは揺れを防ぐにはあまりに小さすぎて、他のすべてのパネルにも配置されていた。ブレースもカウンターブレースも、アングルブロックに取り付けられていなかったし、それらの端は正方形でなかった。
  3. 設計と建設の欠陥は、いつなんどきでも注意深い検査によって特定できたはずであるが、しかし鉄道の検査官らはこれらの問題を特定しなかった。橋が崩壊する前に、多くのブレースとカウンターブレースが所定の位置から外れていたし、何かを検査官らが気づかなかったか、でなければ鉄道が修理しなかったかのいずれかである。

委員会は材料に欠陥を発見しなかったし、2両目の機関車によるエアブレーキの適用が橋の崩壊を引き起こしたという考えを拒否した[50]

マクドナルド捜査の結論[編集]

3つ目の調査は、土木技師のチャールズ・マクドナルドによって独自に実施されたし、彼はおそらく米国土木学会(ASCE)から橋の崩壊の調査を依頼された[116]

マクドナルドは、橋の故障の3つの要因を非難した[123]――

  1. 鉄道関係者らによる不適切な検査。しかしながら、彼は、ほとんど訓練を受けていない男性によるまれな検査は、LS&MSの中だけではない、と述べた。
  2. 鉄の強さについての不十分な知識。業界全体がこの知識の欠如に苦しんでいた、と彼は書いた。
  3. ミスキャストラグの障害。

マクドナルドは、西端から最初のフルアングルブロックの頂部にある最南端のラグの欠陥のために橋が崩壊した、と信じていた。彼は、橋のアングルブロックの上のラグが、何らかの理由で、2インチ (51 mm)から1.6875インチ (42.86 mm)に削られた、と述べた。これにより、弦材からブレースとカウンターブレースに応力を伝達するラグの能力が大幅に弱まった。彼の報告によると、「2番目のブレースセットの上部にある鋳鉄アングルブロックは、南ラグがフェースの近くで壊れていたし、破砕線は、セクション全体の半分に広がる空気穴をあらわにした。 ..。失敗は最初に南トラスで、西橋台から2番目のパネルポイントで始まった。」("The cast iron angle block at top of second set of braces had the south lug broken off close to the face, and the line of fracture disclosed an air hole extending over one half the entire section. ...[The] failure first began in the south truss, at the second panel point from the west abutment.")[124]2番目のフルアングルブロックは、「それまでのところ、空気穴によって完全に強度が半分に低下するほど損なわれていた...。他のどの点でもこれらラグは、鋳造の最後とここで大幅に補強されていることを除いて、非常に大きなひずみを受けていた。」("was so far impaired by an air hole as to be reduced in strength fully one half. ...At no other point were these lugs subjected to so great strain, except at the end casting and here they were heavily reinforced.")[125]この「欠陥ある詳細」("defective detail")が橋の崩壊を引き起こした[126]

鉄道による結論[編集]

LS&MSのアマサ・ストーン社長は、設計や構造上の欠陥があることを断固として否定した[127]。彼は当初、列車を引いている機関車2両のうちの1両の脱線による[37]、または列車の脱線を引き起こした緩いレールによる、橋の崩壊を非難した[128]。鉄道はまた、竜巻が橋に当たり、それを橋台から緩ませたかもしれないとの仮説を立てた[128]

LS&MSは災害の責任を受け入れることを拒否したけれども、法的請求を静めるために、犠牲者らとその家族に50万ドル($テンプレート使用エラー {{Inflation}}: |index=US (パラメータ1)はインデックスとして正しくありません。 in 2020 dollars)以上を支払った。

災害の現代工学分析[編集]

スウェーデンのチャルマース工科大学の土木技師ビョルン・オーケソンは、橋の崩壊の3つの近接原因を特定した――(1)疲労による、橋の西端のアングルブロック・ラグの破損(曲げおよびせん断応力によって引き起こされた)、(2)不適切に取り付けられた弦材と斜材からのスラスト応力、そして(3)低温、これらのために、鋳鉄アングルブロックがもろくなった。アングルブロックの故障のために、上弦材が座屈し、橋が崩壊した[39]

アングルブロック[編集]

アングルブロックは鋳鉄でできていたし、オーケソンはそれは適切だと言っているし、というのもアングルブロックは圧縮されていたから[129]。橋の上弦材のアングルブロックの上の垂直ラグはせん断応力を受けたが、しかしせん断応力は弦材の隣接する部材の1つによってのみ誘発されたために、これは最小限に抑えられていたはずである[33]

オーケソンは言っている、重要な問題は、2番目と3番目のパネルの間のジョイントの南のアングルブロックの壊れたラグに空所があったことである。空所自体がブロックの完全性を弱めた。空所はまた、大きな粒子の形成を促進するし、スラグのような不純物を蓄積し得るし、そのどちらも鉄の脆性を高める[39]。空所はまた、応力集中効果によってブロックへの応力を悪化させた[130]。ガスパリニとフィールズは、この空所が金属疲労と組み合わさってラグが故障した、と結論付けている。金属疲労は鋳造および錬鉄の問題であったし、19世紀には少数の冶金学者や技術者しか気づいていなかった[131]。このアングルブロックのラグの故障のために、橋全体が故障した[132]

合同委員会も、検死陪審も、彼らが雇ったエンジニアも、アングルブロック鋳造の欠陥を特定しなかった[133]

ガスパリニとフィールズはふりかえって言う、ラグがアングルブロックの本体に移行するポイントは非常に問題があった。溶鉄の凝固率は非常に異なっていたために、これは亀裂あるいは空所が形成される可能性が高い場所であった[134]

貧弱な構造が圧倒的なスラスト荷重を引き起こした[編集]

橋の斜材の貧弱な構造のために、アングルブロックのラグにかかる応力が悪化した。ハウトラスは、橋が荷重を運ぶ方法を改善するために、ブレースとカウンターブレースのプレストレシングに依存している。垂直ポストのナットを締める(プレストレシング)ことは、垂直材を張力状態におく(それらを伸ばす)。もし斜材がすでにアングルブロックにぴったりとはまっているならば、プレストレシングは斜材を圧縮する。これにより、より多くの負荷を運ぶことができる。しかしながら、アシュタビューラ橋の斜材は、アングルブロックにゆるく取り付けられているのみであった。プレストレシングは、斜材をアングルブロックに比較的密接に適合させたが、しかし斜材を圧縮しなかった[14]。問題は悪化させられた、なぜならシムが斜めのベアリングとアングルブロックの間の空きを埋めるために使用されたから。橋の歴史は、これらのシムのいくつかが時間の経過とともに緩み、落ちていたことを示している。シムが失われると、しっかりと接続された斜材が緩い斜材より荷重を吸収するために、不均一な荷重が発生した[129]。オーケソンは、シム自体がIビームとラグの間に不均等な圧力点を作成し、ラグにせん断力だけでなく曲げ力をも加えたかもしれない、と指摘している[39]。斜材が、運ぶつもりとされた荷重を運ばないので、弦材に余分な応力がかかった[14][注釈 38]アングルブロックの不均等な負荷は、金属疲労を悪化させた[129]

橋の上弦材の構造も貧弱であった。この弦材は、並列に走る5本のIビームで構成されていた[9][14]。5つの部材すべてがパネルジョイントで終わると、実際には橋が弱くなったし、そのために、ハウトラスは、3つが1つのパネル接続で終了し、他の2つが次のパネル接続で終了するように構築された[14]。斜材とアングルブロック間の接続と同様に、Iビームとアングルブロックの頂部のラグの間に空きがないことが重要であった、なぜならこれらのラグが軸力を次の部材に伝達したから。部材とラグの間に空きがあると、この移動の効果が低下し、ラグにせん断応力が発生するであろう[9]。むくりの問題により、弦材の部材が短くなり[15]、ラグが削られ[135]、ラグと弦材部材の間に空きができた。[注釈 39]。建設作業員らは、金属シムを使用して、ラグと弦材の間の空きをぴったりと合うまで埋めた。ヨークやボルトのようなアクティブな接続ではなく、摩擦だけがそれらシムを所定の位置に維持した[136]。災害前の数年間に、機関車の機関士らは、列車がアシュタビューラ橋を渡るとき「パチンという音」("snapping sounds")が聞こえた、と報告した。これは、一部のシムが緩んで脱落し、弦材とアングルブロックの垂直ラグの間にスペースが再導入されていたことを示している。これは、弦材の部材がラグに突然押し付け、さらに多くの金属疲労が発生することをゆるした[129]。建設記録には、いくつかの弦材部材がずれているという兆候もある。それらのベアリングが平らであったとしても、それらはラグに完全に合っていなかったであろう。これもまた、不均一な荷重を生み出し、金属疲労を悪化させたであろう[129]

ガスパリーニとフィールズは、もしアクティブな連続接続によって弦材と斜材が強化されていたならば、橋はラグの喪失を生き延びたかもしれない、と結論付けている[137]。アクティブな連続接続は橋で使用されなかった――それら弦材の部材は、1つおきのパネルでのみアングルブロックに接続されていた[9][136]し、それぞれの弦材を構成する5つのビームは、それらの間に連続的な相互接続がなかった[9]し、[注釈 40]対角線を構成する平行なIビームはどれも連続的に相互接続されていなかった[9]。オーケソンは、薄い部材が厚い部材が行くべき場所に配置され、その逆も同様であったために、十中八九構築エラーにより、斜材の効果がさらに低下したであろう、と指摘している[29]。トラスシステムが堅牢で余剰であるためには、ハウトラスのブレースとカウンターブレースは同じサイズである必要がある。たとえば、ブレースをカウンターブレースに比べて強くすることは、斜材の力の相対的な分布を変化させることによって実際に堅牢性と冗長性を低下させる。これらのエラーは、余分な負荷に耐える橋の能力をかなり低下させた[138]。むくり修理後のストーンの橋の強化も、橋の能力を損なった。ストーンは、エンドブレースに2つのIビームを追加することによって、実際にエンドパネルのブレースが耐え得る最大応力を減らした[139]

低温はラグのひびを悪化させた[編集]

災害当夜の低温はまた、すでに損傷しているラグの金属疲労を悪化させた[129]。低温が金属疲労の発生と悪化で演じた役割も、19世紀にほとんど理解されていなかった[131]。事故当時の気温は16 °F ( −9 °C)であった[53][134]。鋳鉄は破壊と疲労亀裂が発生しやすい[129]し、ガスパリニとフィールズは、ラグの空所に起因する重大な疲労亀裂が災害時に存在し、過去11年間に繰り返される不均等な応力によって作成されたことを示唆している[134]。事故当夜の低温は、鋳鉄のもろさを増した。既存の破壊は寒さで悪化したし、ラグの故障を引き起こした可能性がある[129][134]

不十分な検査の係争点[編集]

橋の崩壊に関する現代の分析は、鉄道は橋の検査と維持が不十分であったと結論付けている[127][132]。しかしながら、オーケソンは、橋のより良い検査が崩壊を防げなかったかもしれない、と言っている。逆ハウトラスは上部構造を線路の下に置いているし、そこでは見、調べるのが難しいし、アングルブロックは周囲のIビームによって隠されていた。より良い検査は、いくつかの建設エラーを修正し、落下するシムを特定したかもしれないが、しかし橋の生存性を改善しなかったかもしれない[140]

遺産[編集]

残骸現場近くのオハイオ州の歴史的マーカー

立法合同委員会は、オハイオ州で最初の橋の設計コードを作成し、 橋梁建設の専門家による監視が必要とされ、土木技師による専門家による頻繁な定期検査を義務付ける法案を起草した。オハイオ州議会は法案に基づいて行動することを拒否した[141]

アシュタビューラの市民らは、市が橋の災害の犠牲者のための医療を欠いていることを懸念し、自分らの町に病院を建設するために資金を集め始めた。救急診療所は1882年にオープンした[142]し、続いて1904年7月1日にアシュタビューラ総合病院がオープンした[143]

事故の直後につづいて、他にもいくつかの変更が加えられた。鋳鉄は、延性が低いために、事故直後に土木技師らによって耐荷重構造物での使用が禁止された[144]。1886年ころ、客車の薪と石炭ストーブにとって代わって、蒸気熱が鉄道に採用された[要出典]。州際通商法の一環として、1887年に連邦制度が設立され、致命的な鉄道事故を正式に調査した[145][146]

当初、チェスナットグローブ墓地にある身元不明の遺体の集団墓地はマークされていなかった。地元の市民らは1892年に敷地内に記念碑を建てる努力を始めた[147]し、そしてアシュタブラ橋災害記念碑は1895年5月30日に捧げられた[148]それは5000人のまえであった[149]。火事で死亡したことが知られているが遺体が見つからなかった25人の名前は、記念碑の土台の飾り額に記載されている[147]

12月29日夜に助けを求めるために使用されたレイク・ストリート消防署からの警報ベルも保存されている。それは個人の手に渡ったが、しかし1975年にアシュタビューラ市に寄贈された。それはいまや、市のメイン・アベニュー消防署の前に、小さな飾り額付きで展示されている[149]

愛する人が生き残ったかどうかを尋ねる心配している友人と家族からの手紙は、オハイオ州ジュネーブオンザレイクのジェニー・マンガー・グレゴリー記念博物館に保管されている[107]

チャールズ・コリンズの死亡[編集]

州議会委員会の前で証言した複数日後に、LS&MSチーフ・エンジニア チャールズ・コリンズが、寝室で頭部の射撃のために死亡しているのが発見された[150]。コリンズは、その前の月曜日に鉄道の取締役会に辞任を申し出、拒否されて[151]、悲しみからそして悲劇的な事故の一部の原因であると感じて、自殺した、と信じられた[152]

両者ともに1878年に行われた公式の検死2つは、コリンズが謀殺された、と結論付けた。不明な理由で、法執行官らは当時これらの報告を発表しなかった。これら報告は2001年に再発見された[153][154]

コリンズはチェスナット・グローブ墓地の或る精巧な大霊廟に埋葬された[109]

アマサ・ストーンの死亡[編集]

アマサ・ストーンは1883年5月11日にバスで自分を撃って自殺した[155][156]

脚注[編集]

注釈
  1. レイク・ショア&サザン・ミシガン鉄道は1969年4月6日に結成された[1]。多くの情報源によると、LS&MSはアシュタビューラ川に架かる橋を建設したが、しかし、これらの情報源は、ある形式の文学的な速記を使用しているようにみえる―― 会社のよく知られている後の名前を使用している。
  2. ストーンまたはトムリンソンが橋の高さ対スパンの比率またはパネルの数を設定したのか、それとも接続ポイントを設計したのかは不明である[9]
  3. 橋は幅19.5フィート (5.9 m)であった[11][12]
  4. この橋はオハイオ最初の、すべて鉄の橋であった[10]
  5. 「むくりは、完全に荷重がかかったとき水平性を確保するためにビームあるいは桁、あるいはその中の線に与えられる上向きの曲率である。」[18]
  6. 特許取得済みのハウトラス橋設計は、斜めと水平の部材に木のビームを、垂直の部材に鉄のポストを使用した[12]
  7. コード、ブレース、カウンターブレースはすべてIビームでできていた。垂直なポストはロッドでできていた[14]。 各Iビームは厚さ6インチ (150 mm)で、幅8インチ (200 mm)であった[11]
  8. ブロックマンは、設計変更は、橋設計あるいは建設経験がない大工A・L・ロジャースの助けを借りて行われた、と言っている。[21]土木技師ビョルン・オーケソンは、当時、すべて鉄のハウトラスは非常にまれであったために、大工の使用は驚くべきことではない、と指摘している[22]。しかしながら、アマサ・ストーンは1877年に、ロジャーズは建設の監督しか受けていなかった、と述べた[23]。ロジャーズ自身は、橋の設計を一切否定した[24]
  9. マクドナルドは橋が崩壊してから数日後に災害現場を訪れ、広範な図面とメモを作成した。彼は橋の建設プラン(当時、鉄道のゼネラル・マネージャー ジョン・ニューウェルが所有していた)のコピーを1つ作成し、売り渡し証を読んで実際に配達されていた資材を特定した。約1か月後に、彼は橋の残骸を再調査した(この時までに、それはクリーブランドのコリングウッド地区にあるLS&MS店らに移動されていた)[27]
  10. ギブプレートは、「固定されているピースを所定の位置に保持しながら、所定の方向に自由に移動できるようにするプレートまたはストラップ」である[28]
  11. タップボルトは、ナットを使用して取り付けられるのではなく、ねじ穴(または「タップ」)にねじ込まれるボルトである[31]
  12. スウェイロッドは他のすべてのアングルブロックにのみ接続されている[32]
  13. ガスパリニとフィールズは、足場が動かされる前に、ロジャーズが橋に非常にしっかりとプレストレスしていたことを指摘した。ロジャーズは、これが、足場が撤去される前にさえ、いくつかの斜材を座屈させたことを認めた。その後、ロジャーズは垂直ポストを緩め、目に見える座屈をなくしたけれども、斜材は座屈する荷重に非常に近い可能性があった――橋にまだ活荷重がかかっていなかったにしても[35]
  14. ブロックマンは、フランジが水平になるように梁を回すことが、実際にブレースが橋を補強する能力が弱まったと言っっており[21]、コンドンが間違っていたことを示している。
  15. ブロックマンは、作業員らが修理作業中にIビームブレースを誤って取り付けたと言っている[21]
  16. それら機関車の推定重量は、1887年にそれぞれ40米トン (36 t)であった[42]が、しかし、1993年にそれぞれ30米トン (27 t)であった[40]
  17. CP&Aは、1868年6月17日に名前をレイク・ショア鉄道に変更し[44]、1869年4月6日にミシガン・サザン・アンド・ノーザン・インディアナ鉄道と合併し、レイク・ショア・アンド・ミシガン・サザン鉄道(LS&MS)を形成した[45]。これに続いて、1869年8月1日、バッファロー・アンド・エリー鉄道がLS&MSに統合されたし、これにより、シカゴからバッファローまでの路線が初めて単一の会社の管理下に置かれた[46]
  18. これは、1か月足らずでこの地域を襲った3番目の大きなブリザードであった[49]
  19. 情報源は、列車が予定よりどれだけ遅れていたかによって大きく異なる――約1時間[48]、1時間8分[52]、2時間[43]、2時間半[55][56][57]、そして4時間[58][59]。しかしながら、LS&MSの鉄道時刻表によると、列車は午後3時45分にエリーを出発する予定であった[60]
  20. Socrates』が先頭機関車であった[63]
  21. ナッシュは、手荷物車4両、コーチ2両、寝台車3両、パーラー車1両、喫煙車1両として列車の構成を示している。オースは、列車は手荷物車2両、客車2両、急行車2両、寝台車3両、食堂車1両、喫煙車1両で構成されていたと言っている[64]し、いっぽう、ベラミーは、手荷物車2両、「客車」("passenger cars")2両、急行車2両、寝台車3両、そして喫煙車1両があったと言っている[43]。事故に関するオハイオ州議会の公式報告によると、手荷物車1両、客車4両、急行車2両、寝台車3両、喫煙車1両であった[65]
  22. 正確な乗客数はわかりえない[57][66]。車掌バーナード・ヘン[67]は収集したチケットから、列車に大人127人から131人が乗車し、子供数は不明であると推定した[68]。しかしながら、彼は、彼のチケットには、事故当時の列車の乗客の総数も[62]、鉄道が発行したパスで旅行している乗客の総数も示そうとしないことを認めた[69]。制動手A・H・ストーンは、乗客数が200人に近いと信じていた[62]。この数は、歴史家ダレル・E・ハミルトンによっても使用されていた[57]。さまざまな数が他の情報源から提供されている――131人[70]、147人(乗客128人と乗員19人)[71]、156人[72]、159人[73][74]、160人[75]、197人(鉄道の公式集計)[57]、「200人近く」("nearly 200")[76]、130人から300人[52]、「300人近く」("nearly 300")(車掌の推定)[57]、そして「300人超」("over 300")[48]。普通客車と急行客車はそれぞれ70人で満員であったし、寝台車はそれぞれ30人の乗客を乗せていた。喫煙車は「十分に満たされていな」("not well filled")かった[62]。列車の乗客らは、彼らが座席や寝台を見つけるのに苦労したために、131人以上いると信じていた[70]。乗組員の数19人は、よりしっかりと立証されている[71][57]
  23. 川の谷は深さが70から135フィート (21から41m)からさまざまであった[53]し、これは、列車がどこまで落ちたかに関する情報源の不一致を説明しているかもしれない。
  24. それは途中で実際に橋台にぶつかったかもしれない[80]
  25. 他のどの車両より最初の客車から多くの人々が生き残った、なぜならそれは直立して着地し、列車の他の部分にぶつからなかったから[83]
  26. ボランティアのLake Erie Hose Companyは、レイク・アベニューとディーポー・ストリート(現在は西32丁目)[94]にあり、列車の駅に隣接する、市が後援する消防隊であった[95]
  27. 鉄道の方針は列車が燃えるにまかせるということであった。この方針は、乗客らがまだ乗っている可能性を考慮して出されなかった[87]
  28. 両者ともに市が後援する、すべてボランティアの消防隊であった。Protection Fireはメイン・アベニューにあったし、Neptune Hoseはセンター・ストリートにあった[94]
  29. ヘップバーンは鉄道の従業員であったし、公務を遂行しながら鉄道を守ろうとすることに重大な利害の対立を持っていた。彼の権威はこれによってひどく損なわれたし、彼の命令は無視され、すぐに実行されず、町民、警察、そして鉄道関係者らから質問された[98]
  30. 一部の目撃者は、ブリスが残骸を生き延びたが、しかし他の人らを救おうとして炎の中に走り込み、たおれた、と主張した。19世紀の多くの情報源は、ブリスが妻と子供らを救うために炎の中に走り戻ろうとした、と主張した。(彼の子供らは彼と一緒に旅行していなかった。)歴史家らは、これらすべての話は虚偽であると信じている――ブリスはけっして、生きたまま残骸からうまく脱出しなかった[93][105]
  31. 凍った地面は、埋葬が起こる前に長い遅延を引き起こしていた[110]
  32. アマサ・ストーンは逆ハウトラスを使用していたために、上弦材は橋の底部にあった[21]。この記事は、「上弦材」("upper chord")という用語を使用して、橋の底部にある弦材を指す。情報源はしばしば「上弦材」("upper chord")という用語を使用して、橋の頂部の弦材を指すが、しかし、この記事は、一貫性を保つために必要に応じて、情報源で使用されている用語を逆にしている。
  33. 検死陪審は、第1パネルと第2パネルの間のジョイントでの南ハーフアングルブロックの破損が、橋の崩壊が始まった場所である、と判断した[115]
  34. ブレースかカウンターブレースが移動したか、位置から落ちさえしたかは、論争の点であった。合同立法委員会に雇われた土木技師アルバート・ハウランドは、一部のブレースが0.5から1.5インチ (13から38mm)の間で本来あるべき場所からはずれていた、と述べた。同じく合同委員会に雇われた別の土木技師ジョン・D・クレホアは、橋が2年前に最後に塗装されて以来、ブレースはあるべき位置から移動していなかった、と結論付けた[116]
  35. ハウランドはまた、検死陪審の前で証言した[95]
  36. 建設から完成まで橋を走る機関車の重量を明らかにする1段落のテクニカルノートが、鉄道のマスター・メカニック ジェームズ・セジリーによって追加された[119]
  37. 合同委員会の報告書は、橋の西端から2番目と3番目のパネルの間のジョイントでの座屈による橋の故障の最も近い原因を示した。しかしながら、委員会は、それが弦材部材あるいはブレースなのか判断できなかった[122]。合同委員会に雇われた土木技師の1人アルバート・ハウランドは、2番目と3番目のパネルの間のジョイントで下弦材(橋の頂部)が崩れた、と主張した。彼は、3つの連続したIビーム部材がこの時点で外側に座屈した、と結論付けた[116]
  38. オーケソンは、足場の撤去中の座屈は、斜材とアングルブロックの間の不適切な適合と、実際に誘発されたプレストレシングの量に対する制御の欠如を示している、と結論付けている[14]
  39. ガスパリニとフィールズは、斜材のラグとIビームを変更すると、十中八九、各斜材の強度が低下したであろう、と述べている。しかしながら、ストーンがIビームを追加したために、橋の全体的な強度が改善されたし、変更は橋の崩壊に寄与しなかった[134]
  40. 5つの部材は、ビームのウェブを通る2本のボルトによって各パネル接続で一緒に保持された[14]
引証
  1. Ohio Commissioner of Railroads and Telegraphs 1874, pp. 92-93.
  2. 2.0 2.1 2.2 Brockmann 2005, p. 207.
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文献[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯41度52分43秒 西経80度47分22秒 / 北緯41.8785度 西経80.7894度 / 41.8785; -80.7894


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